芸術生成論7「尾形乾山考」

尾形光琳の弟である乾山は元禄十二年(1699年)37歳のときに、京都の西にある乾山の地、鳴滝に窯を開き、陶工としての道を歩み始めた。その窯には、陶法伝書を授けた野々村仁清(二代目)清右衛門や猪八が手伝いとして参加していたようである。

乾山の窯に近い御室焼仁清の窯はすでに衰退しつつあった。仁清がその陶法の秘伝といえる陶法伝書を乾山に授けたのは、後を乾山の窯に託そうとする意図があったのかも知れない。乾山の作品はどれも仁清が好みそうな洒脱なところが残っているが、焼きの技術も特に重要な課題だったのだろう。

銹絵滝山水図茶碗

 

乾山が窯を開くに当たって考えていたことは、初代仁清のような見事なロクロの成形に主眼を置かず、器にさまざまな絵文様を描いて、過去の桃山陶芸と違った独自の美を造ろうとしたことである。つまり、単純な継承を超えられる自信があったのではないか。なぜなら、乾山には光琳という天才的な絵描きの兄がいたのだ。そこから、兄弟協力しての独特の乾山陶の世界が開かれていったのである。

伝統は継承こそ重要だが、先代を超えようとする狙いもまた重要である。天才兄弟はしたたかであった。

乾山作として伝えられた茶碗を見ると、器形はいずれも絵付けのための素地といえる単純な形体のものがほとんどであり、本阿弥光悦のような個性的な作風を表わすことはまったく意識していない。単純な形の茶碗を下地として造らせ、そこに絵を描き、絵の横に詩賛を書き、文人的な作風の新しい茶碗を創始したのである。

銹絵瀧山水絵茶碗と槍梅絵茶碗は、そうした乾山の代表的な作品である。銹絵具で絵を描き、詩賛を書いたのは乾山自身であったと推測されるが、瀧や槍梅の筆致が他に比べて優れているため光琳の可能性も指摘されている。

槍梅絵茶碗

 

乾山や兄の光琳は梅が好きであったらしく、光琳筆の紅白梅図屏風は世紀の傑作である。乾山も梅花を意匠化した作品が多い。ここに挙げた色絵の槍梅絵茶碗は、染付の瀧山水や梅絵茶碗の筆致と比べると、どこかおっとりとしている印象もあるが、紅白の花の咲き匂う梅林の様子がかっこいいというより、楽しそうに描かれていることに気付く。老いた樹木は釉下に鉄絵具で描き、若い枝や紅白の花は上絵付けで表現していて、素地の柔らかい釉肌とよく調和した焼き上がりである。

色絵槍梅図茶碗

 

高台脇の「乾山」の署名は、鳴滝に開窯した後の4年後の書体と一致すると研究者は指摘する。

前図の茶碗と違って、この茶碗は堅く焼き締まる。茶碗の形もほぼ同形であるが胴にふくらみがあり、腰にも丸みがある。描かれた梅の枝はほとんどが槍梅だが、枝先が口縁で切れているのが面白く、この意識的にはみ出すというところに私は琳派を感じる。

鉄絵の枝や蕾の他に、やはり釉下に白化粧絵具で蕾を持つ梅が描かれているのも乾山らしい試みである。鳴滝時代の作品には、同じ画題のものが幾つもあるが、その表現にはさまざまな工夫が残り、陶法の研鑽につとめていたとわかる。

乾山の半筒形の茶碗はたくさん残っているが、その描かれた絵には「上手い」と「ちょっとこれは…」と差があるようだ。乾山の茶碗には、茶席の主役になりたがるような強烈な存在感はあまりない。茶碗としては脇役だが乾山の個性が自然と滲み出ていて、見ている人にホッとする和みの面白さがある。

非凡な名手であった仁清の後に、乾山が登場したことは非常に興味深い。仁清から乾山と二人が続いて出現して、江戸時代を代表する茶の湯の茶碗があったのだ。

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