松林豊斎様との対談
【松林】→ 松林豊斎(まつばやし ほうさい)様
【西村】→ 西村一昧(にしむら いちまい)甘木道 店主


【西村】本日はお忙しいところありがとうございます。まずは今回ご紹介したい「酒呑」についてお話を伺えればと思います。実はこの作品を初めて拝見したとき、月白釉(げっぱくゆう)の美しい淡い青と、その上を優雅に流れる金彩との絶妙なコントラストに、とても惹きつけられました。「綺麗さび」の精神を現代らしく表現されていると感じますが、この金彩の華やかさが尾形光琳らが大成した琳派を思い起こさせる一方で、朝日焼には茶人・小堀遠州の「綺麗さび」の美意識が脈々と受け継がれています。そこをどのように融合されているのでしょうか。

【松林】「綺麗さび」という言葉は朝日焼の基礎をなす美意識として、歴史的にも私の中でも非常に大きな制作のテーマであります。対比すべきものとして千利休が大成したと云われる「侘び寂び」の美意識がありますが、その「侘び寂び」に対して綺麗という、相反するような要素を組み合わせて調和をもたらすのが「綺麗寂び」の特長です。「侘び寂び」の不完全さや、素朴さ、枯れた雰囲気と、「綺麗」という華やかさ、洗練さ、上品さ。のようなものを調和していくのです。 一方で、この美意識がどのような器となってアウトプットされてくるかというのは時代によって変わると思っています。私の月白釉流シの作品は、まさにこの「綺麗寂び」を現代的に捉えた作品として作ってきました。月白釉の水色は非常に「綺麗」な色です。そこに対比するようにプリミティブな土味が存在し、白い化粧土がそれらを現代な感覚で調和させます。これは400年前の人達が見れば、織部の色よりも大胆で豪快な作品と映ったことでしょう。
しかしながら我々は現代の刺激の強い色の氾濫の時代に生きています。その我々にとって、このコントラストの効いた「綺麗」と「寂び」の調和こそが心地よい「綺麗寂び」なのだと、私は捉えており、金彩の作品もその延長上にあります。

確かに、金の華やかさは琳派を想起させるものかもしれません。しかしながら、現代の我々の目から見た場合、総体として私の作品は「綺麗寂び」の範疇に入る調和を持っていると思っております。実際、この金彩の作品を作る前には、金彩の技法は華やかすぎると感じていたのですが、コロナ期間中に一人で工房にこもって作陶を続ける際に、もっと明るい気持ちで器に向き合いたいという欲求が湧いてきて、これを作るようになりました。自分が襲名以後、月白釉流シの作品を作ってくる中で、金という強い素材と月白釉流シの作品を調和させるだけの技量と自信がついてきたことも大きかったと思います。
【西村】ありがとうございます。月白釉は淡い青みと独特の透明感があって、夜空に浮かぶ月の光を連想させるような幻想的な美しさがありますし、そこに金彩が流れ込んでいる構図がとても神秘的ですね。また、朝日焼といえば宇治の地で四百年以上の歴史を持つ窯元で、茶人・小堀遠州の指導を受けた「遠州七窯」の一つと伺いました。千利休や古田織部、小堀遠州という三大茶人のなかでも、特に遠州は「綺麗さび」を打ち立てることで茶陶の世界に調和や優美さを取り込んだ人物でしたよね。そうした由緒ある朝日焼のなかで、十六世として新たな挑戦もされているわけですが、「伝統」と「革新」をどのようにお考えでいらっしゃいますか?

十五世豊斎作 鹿背 茶盌

十五世豊斎作 鹿背 茶入

十五世豊斎作 紅鹿背 茶盌
【松林】私は作品を制作する中で、三つの要素の組み合わせが自分の作品を形成していると感じています。一つは、朝日焼らしさ。これは「綺麗寂び」という美意識とともに、宇治の土を生かすことであったり、ロクロへのこだわりであったり、さまざまな要素があるのですが、脈々と受け継がれる中で培われてきたものです。二つ目は時代性です。朝日焼の十六人目の当主として私が生きているこの時代の空気感というものが確実に作品に反映されていくと思いますし、そうでなくては作る意味がないと思います。非常に古典的な作品を作る時でさえ、私がそれを作る場合には、それは一部に現代的な要素が宿ると思っています。 三つめは、私自身のらしさです。これは上記二つと切り離すことができないのですが朝日焼という伝統を背負って、現代に生きる私が、様々なモノや人に出会い経験することによって形成された人格でもって作ることが作品には必ず反映されます。月白釉流シの作品についていえば、私がこの作風を始める数年前から海外での活動が増え、イギリスのセントアイブスでの作陶を経験したことなどが大きく反映されて出来てきた作風かと思います。 この三つの要素を持って制作を行った時に、確実に伝統は更新されていくものと思います。 400年以上、十六代にわたって継承される朝日焼を継ぐものとして、一般的に語られるようには伝統と革新というものを二つの異なる要素と捉えることは私にはできません。継続性を保って更新され続けるものが結果として伝統と呼ばれるものになるのだと思います。ですので、私は伝統というものに新しい要素を入れることには全く躊躇はありませんし、そこに継続性が見出されていくのだと思います。 しかし、加えて申し上げると、伝統ということの対極に存在する本物の革新はあると思います。伝統だけが世の中に必要なものではなく、継続性を絶って全く新しいモノを生み出す革命的なイノベーションも世の中には存在するし、必要だと思います。 更新し続けながら継続性を保つ伝統と、革命的な断絶するほどの新しさ。この二つが社会には必要で、私は前者の方を受け持っていてると思っております。

【西村】私がお客様に松林様の作品をご案内すると、皆さま「もったいなくて使えない」とおっしゃることも多いんです。でも実際は、やはり使ってこそ作品の真価がわかると思います。器に限らず道具は使い込むほど愛着や味わいが増しますし、陶器は使うほどに手に馴染んで表情も変化しますよね。飾って鑑賞するだけでも美しいですが、実際にお酒を注いだりお茶を点てたりしてこそ「自分のものになった」という感覚を得られると思っています。それと、朝日焼では先代が掘られた陶土を寝かせておき、次世代が使い続ける慣習があると伺い、深く感銘を受けました。このような形で伝統を受け継いでいく一方、今後はどのような作品を作られる展望がございますでしょうか?

【松林】日本の文化の中には、特に茶道において顕著ですが、使う道具をアートのように鑑賞するという特長があります。西洋の伝統の中には、使うために生まれてくるcraftと、鑑賞するために生まれてくるartをはっきりと区別してきたことがあると思いますが、それが日本にはないのです。

ですから、手触り、口当たり、といった触覚的な感覚も含めて作品を楽しんで頂くことが我々の器をより深く味わって頂く良い方法なのだと思います。 私は良い器というものは、作り手だけでなく、使い手の想いもその中に注ぐことのできるものだと思っています。ぜひ、たくさん使って、たくさんのことを感じ、思いを器に注ぎ込んで頂けたら嬉しく思います。 仰るように、朝日焼では伝統的に自分たちで土を掘って、その土を使って作陶するのですが、今掘る土をすぐに使うのではなく、祖父の時代にが掘って寝かしておいた土を使って作陶をするという風習があります。これは先祖がしっかりと子孫のことを考えて器作りを営んできたからこそ成り立っている伝統で、その意味で、私もしっかりと自分の時代の責任を果たしていかなくてはなりません。 その時代には、その時代なりの背景が存在し、皆、その中で朝日焼をその時代に相応しい形として、次代に繋げて来てくれました。私も、次の世代への責任を果たすべく、この時代ならではの朝日焼を作っていきたいと思います。 今の時代ほど、朝日焼の器を日本以外の方達に使って頂いている時代は過去にはありません。我々はもちろん日本の風土と文化の上に築かれてきたものですから、そこから大きく離れることは意義のあることとは言えませんが、それでも朝日焼の伝統の継続性を持ちながら、より普遍的な美の価値観を持った、世界中の方々に愛されるような朝日焼を作っていきたいと思っています。その一歩目は月白釉流シ、そして金彩の作品が担ってくれていると思います。
【西村】本日は貴重なお話を賜りありがとうございました。朝日焼の四百年を超える伝統の中に脈々と受け継がれてきた「綺麗さび」とは、単に古典を踏襲するだけでなく、時代とともに自然に更新されていくものだということを、改めて深く感じました。金彩と月白釉の見事な調和もまた、松林様ご自身の海外でのご経験や、現代の私たちの感覚を十分に取り入れたうえで成立しているのだとわかり、大変勉強になりました。そして、作品は飾るだけではなく、実際に手にとって使い込み、そこに所有者の思いを注ぎ込むことで、本来の魅力がさらに深まるというお言葉に強く共感いたしました。朝日焼の豊かな土の風合いとともに、私たち使い手の想いが「綺麗さび」の世界を広げていくのだと思います。伝統と現代性、そしてお一人おひとりの個性が紡ぎあう朝日焼の今後の展開を、心から楽しみにしております。本日は誠にありがとうございました。