岡田優様との対談
今回は、岡田優様の工房にお伺いして、お話をお伺いしました。
【岡田】→ 岡田優(おかだ まさる)様
【西村】→ 西村一昧(にしむら いちまい)甘木道 店主
【西村】よろしくお願いいたします。それでは、まずご実家のお仕事は絵付けをされていましたか?
【岡田】そうです。──いえ、もっと遡ると祖父ではなく、父が石川県出身でしてね。戦後、石川県で九谷の窯場に通いながら絵付けの修業をしていたんです。そこでずっと絵付けをやっていたんですけど、その頃、石川県に文化勲章を受章した富本健吉さんがいらして、若い作家が集まっていました。ほんとに若い子たちが多くて、父も大いに刺激を受けたようです。

【西村】それで「修業するなら京都へ」という流れになるわけですね。
【岡田】ええ。「やっぱり京都」と決めて京都へ移りました。富本先生の所へも作品を携えて通ったのですが、正式な弟子入りではなく、時折作品を持ち込んで助言をいただいたたのです。京都には九谷出身の絵付け師がたくさんいるんですよ。
【西村】京都は都ですから需要があったんでしょうね。備前や萩のように地元の土を掘って同じ方法で焼くわけではなく、土を買い、貴族や茶人、商人の好みに合わせて作る。これが京焼のスタート、ということですね。
【岡田】そうなんです。岩倉や粟田口など「故郷水」と呼ばれる所でいろいろ始まりますし、それ以前の安土桃山時代には千利休が河原職人に楽茶碗を作らせた。それが今の樂家につながるわけで。だから京都のろくろ師や成形師を辿ると丹波や瀬戸の出身者が多い。良い給金を求めて都へ集まったんです。丹波から来た清水・市野、瀬戸から来た伊藤・加藤という名字はいまでも多いでしょう?
【西村】確かに、丹波には市野さんが大勢いらっしゃいます。絵付け職人も北陸線で京都へ出てきた方が多いとか。
【岡田】そう。どの絵付け師さんも「じいさんが石川県から来た」と言います。うちの父もそうで、遠縁を頼って京都に来て、住まいや仕事を世話してもらったんです。

【西村】小学校時代のお話ですが、猪飼さんが先輩でしたっけ?
【岡田】中学で一学年上の先輩でしたね。四条から七条の間、東山から鴨川までがうちの中学校の区域で、清水寺や明法院もその範囲。中学になるとその一帯から皆が集まります。
【西村】職人家庭が多かったのでしょうか? サラリーマンより家業を持つ家が多い印象でしょうか。
【岡田】もちろんサラリーマンも多いけど、職人比率は高かったです。西陣は染織、私たちの辺りは陶芸と扇子。王子神社の広場で扇子の骨を干してあって、子どもが踏んで怒られる──そんな環境でした。
【西村】高校から専門校に進まれるまで、お父様の仕事に触れる機会はありましたか?
【岡田】実は母が私が小3のときに亡くなりました。父が家で仕事していましたから、私は自然と手伝いをさせられました。サラリーマン家庭は休日に遊園地ですが、うちは出掛ける先が美術館。外食できるのが楽しみで付いて行く感じでした。
【西村】美術館へ親子で通う家庭は良いですね。
【岡田】そんな中で、市電の廃線工事があって、花崗岩の敷石の下に粘土層があると父が見つけた。バケツで掘りに行かされ「何でこんなことを」と思いながら持ち帰り、砕いて水簸して粘土を作りました。せっかくだから、とためしに抹茶碗を手捻りで作ったんです。
【西村】その抹茶碗をお父様が褒めてくれたのですか?
【岡田】父は来客に「うちの息子が作った」と見せて回るから、お客さんも中学生の作品を否定はしない(笑)。皆さん「面白いね」と褒めてくれて、それが嬉しくて「この仕事もいいかも」と思い始めました。

【西村】訓練校は1年でしたか?
【岡田】はい、訓練校と試験場を経て量産窯へ。師匠は目が悪いながら手がめちゃくちゃ早い。飯碗を一日800個、急須を300個。急須は一窯180〜220個ほどを一括注文で、とにかく量産。その基礎を徹底的に教わりました。
【西村】その後、料亭向けの器を多く手がけられた。
【岡田】平皿、刺身皿、金工風の鉢など何でも。魯山人の器は割ると高いので代替品を頼まれたり、東京麹町「福田屋」、京都「菊乃井」、築地「田村」などに納めさせてもらいました。五条坂にある器専門の業者とも長く取引しました。
【西村】ただ、大きいものも作りたくなる。
【岡田】ええ、ろくろを挽いていると大物が作りたくなるけど売れない(笑)。試しに全国伝統工芸展へ出したら初入選。「売れる器」から「自己表現」の作品へ意識が変わりました。2回目はなかなか入選しませんでしたが、その間に作家仲間と議論し、「形で何を伝えるか」を考えるようになりました。
【西村】住山地区へ移った理由はなんでしょうか?
【岡田】昭和40年代、京都市内で薪窯が禁止になり、のぼり窯をもつ窯元がかわりました。個人で電気窯やガス窯を導入できても土地が要る。京都市内で土地を買うのは無理なので、みなさん京北や滋賀、栂尾へ移転します。その時、住山地区が「家族で来るなら土地を分け、無利子融資する」と声を上げました。10軒以上が移転し、私もその一団で来ました。小学校は全校16人です。

【岡田】春は村の田んぼで田植え、秋には収穫米を学習発表会で皆で炊いて食べる。茶摘みして手揉み茶を作る。運動会は地域と合同で全種目に出場しないと成り立たない(笑)。今は120軒ほどの集落のうち、40軒余りが陶芸家です。清水・東山などと並ぶ京焼の一産地になりました。
【西村】その温かな風景を作品に取り込みたい?
【岡田】谷の川風、山稜の重なり、雲の流れ──それを形にしたのが渦文シリーズです。



【西村】あのクリームがかった白釉は失敗から生まれたとか。
【岡田】半透明釉をゆっくり冷まし結晶を成長させるのですが、キープしすぎて真っ白に。酸化焼成で結晶層が表面を覆い、中はガラスです。冷たい白ではなく温かみある白です。土が柔らかいうちに押し出す独特の成形もしています。柔らかい土を轆轤でギュッと押してラインを出し、重力で面が生まれる。貼り足しや削り出しより動きがある。最初は「面倒だ」と言われましたが、完成度が上がっていきました。
【西村】鉄釉への挑戦はいつからでしょうか?
【岡田】10年弱前から金属光沢の天目系鉄釉を始めました。通常の天目は湯滴結晶が出ますが、線意匠を生かすため結晶を抑え全体をメタリックにしています。昨年からは白釉に銀箔で日月(太陽・月)を描く泊地銀彩シリーズも手掛け、阪神百貨店個展で初披露しました。名古屋高島屋、今年は横浜と日本橋のギャラリーで展開します。

【西村】大型電気窯の温度差はどう制御しているのですか?
【岡田】温度計は一点計測なので、作品の詰め方で調整。びっしり詰める部分と透かす部分を作り、上下で置く器種も変えます。経験だけが頼りです。
【西村】今後の構想はありますか?
【岡田】白釉と白化粧を重ねた白のグラデーション、鉄釉に銀彩を合わせた上品な作品にしたいです。泊地銀彩もさらに発展させたいです。
【西村】地域への感謝が作品に昇華されるのを楽しみにしています。本日は長時間、ありがとうございました。
【岡田】こちらこそ、ありがとうございました。


