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芸術生成論7「尾形乾山考」

尾形光琳の弟である乾山は、1699年に京都の鳴滝で窯を開き、陶工としての道を歩み始めた。窯には野々村仁清(二代目)の弟子である清右衛門や猪八が参加しており、仁清の陶法伝書が乾山に伝えられていた。この背景には、仁清が自身の技法を乾山の窯に託そうとする意図があったのかも知れない。乾山の作品には仁清の洒脱さが残る。器にさまざまな絵文様を描くことで、独自の美を追求しようとしていた。乾山は、器の形状に重点を置かず、単純な形の茶碗を下地とし、そこに絵や詩賛を描いて、新しい文人的な作風の茶碗を創り出した。代表作である「銹絵滝山水図茶碗」や「槍梅絵茶碗」では、光琳の手による可能性も指摘されている優れた筆致が見られる。乾山の作品には、紅白梅図屏風のように梅を好んだ光琳の影響が感じられる。仁清から乾山への継承と発展によって、江戸時代を代表する茶の湯の茶碗が生まれたのである。

芸術生成論7「尾形乾山考」

尾形光琳の弟である乾山は、1699年に京都の鳴滝で窯を開き、陶工としての道を歩み始めた。窯には野々村仁清(二代目)の弟子である清右衛門や猪八が参加しており、仁清の陶法伝書が乾山に伝えられていた。この背景には、仁清が自身の技法を乾山の窯に託そうとする意図があったのかも知れない。乾山の作品には仁清の洒脱さが残る。器にさまざまな絵文様を描くことで、独自の美を追求しようとしていた。乾山は、器の形状に重点を置かず、単純な形の茶碗を下地とし、そこに絵や詩賛を描いて、新しい文人的な作風の茶碗を創り出した。代表作である「銹絵滝山水図茶碗」や「槍梅絵茶碗」では、光琳の手による可能性も指摘されている優れた筆致が見られる。乾山の作品には、紅白梅図屏風のように梅を好んだ光琳の影響が感じられる。仁清から乾山への継承と発展によって、江戸時代を代表する茶の湯の茶碗が生まれたのである。

芸術生成論6「石黒宗磨陶片集」

近年のデジタル・ミュージアムという取り組みは、インターネットを通じてさまざまな芸術作品に触れることを可能にするものである。特に陶器の分野では、京都国立近代美術館が公開した「ABCコレクション・データベース 石黒宗磨陶片集」が面白い。このコレクションは、視覚障がいのある人を含む多くの人々が、陶器の質感や重さを想像しながら楽しめるように工夫されている。陶片の画像にカーソルを重ねると、触ったり叩いたりした際の音が再生され、聴覚を通じて作品を体験できるのだ。デジタル技術を活用してより多くの人々にアートとしての陶器を楽しむ機会を提供してくれる。陶器を視覚だけではなく、カサカサ、ザラザラ、コツコツといった聴覚でもって作品を体験できるのは楽しい。

芸術生成論6「石黒宗磨陶片集」

近年のデジタル・ミュージアムという取り組みは、インターネットを通じてさまざまな芸術作品に触れることを可能にするものである。特に陶器の分野では、京都国立近代美術館が公開した「ABCコレクション・データベース 石黒宗磨陶片集」が面白い。このコレクションは、視覚障がいのある人を含む多くの人々が、陶器の質感や重さを想像しながら楽しめるように工夫されている。陶片の画像にカーソルを重ねると、触ったり叩いたりした際の音が再生され、聴覚を通じて作品を体験できるのだ。デジタル技術を活用してより多くの人々にアートとしての陶器を楽しむ機会を提供してくれる。陶器を視覚だけではなく、カサカサ、ザラザラ、コツコツといった聴覚でもって作品を体験できるのは楽しい。

芸術生成論5 『魯山人が解釈する利休と長次郎』

魯山人は、千利休と長次郎について独自の見解を述べている。彼は茶碗作りの本質に着目し、長次郎の作る「極めて単純な器」に精神性が宿ると評価する。それも、長次郎の茶碗は、暖かく穏やかな雰囲気を持ち、品格と貫禄を備えた井戸茶碗に似た重厚感を持つと述べている。魯山人は、このような作品を生み出す長次郎の天分と集中力を称賛する。一方、利休については、世間で言われるほど偉大ではないと考えていたようだ。魯山人は、利休の書跡から頑固さと強引さを読み取り、その人間的側面を指摘する。利休が長次郎を指導したという説についても彼は否定的であり、指導だけで人間の力が変わるものではないと述べている。例えるなら、教育は肥料のようなものであり、元の才能や特質が変わることはないという考えを、「瓜の蔓に茄子はならぬ」という比喩を用いて表現している。

芸術生成論5 『魯山人が解釈する利休と長次郎』

魯山人は、千利休と長次郎について独自の見解を述べている。彼は茶碗作りの本質に着目し、長次郎の作る「極めて単純な器」に精神性が宿ると評価する。それも、長次郎の茶碗は、暖かく穏やかな雰囲気を持ち、品格と貫禄を備えた井戸茶碗に似た重厚感を持つと述べている。魯山人は、このような作品を生み出す長次郎の天分と集中力を称賛する。一方、利休については、世間で言われるほど偉大ではないと考えていたようだ。魯山人は、利休の書跡から頑固さと強引さを読み取り、その人間的側面を指摘する。利休が長次郎を指導したという説についても彼は否定的であり、指導だけで人間の力が変わるものではないと述べている。例えるなら、教育は肥料のようなものであり、元の才能や特質が変わることはないという考えを、「瓜の蔓に茄子はならぬ」という比喩を用いて表現している。

芸術生成論4『長谷川等伯による利休』

長谷川等伯による千利休の肖像画は二種類あり、それぞれに異なる特徴と背景があある。一つ目の肖像画(不審庵)は、利休没後四年、文禄四年(1595年)に描かれたもので、利休が66歳頃の姿を描く。鋭い眼差しと固く結ばれた口元が印象的で、楽家初代の田中宗慶の依頼により制作された。画風から長谷川等伯の作とされ、秀吉に仕えた等伯と利休の関係性を示す貴重な作品である。二つ目の肖像画(正木美術館)は、天正十一年(1583年)に利休が62歳頃の姿を描いたもので、こちらは利休の師である古渓宗陳の賛があり、秀吉の茶頭就任を記念して描かれた可能性が高いが、近年、土佐派絵師の可能性も指摘されている。等伯と利休は共に豊臣秀吉に仕え、茶会で重要な役割を果たしたが、その芸術性と精神性には明確な違いがある。等伯は華麗で力強い表現を得意とし、鮮やかな色彩や大胆な空間配置を用いた一方で、利休は侘び茶の精神を追求し、シンプルで静寂の中に美しさを見出す表現を重視した。このように、二人の芸術表現には対照的な側面を見出すことができるだろう。

芸術生成論4『長谷川等伯による利休』

長谷川等伯による千利休の肖像画は二種類あり、それぞれに異なる特徴と背景があある。一つ目の肖像画(不審庵)は、利休没後四年、文禄四年(1595年)に描かれたもので、利休が66歳頃の姿を描く。鋭い眼差しと固く結ばれた口元が印象的で、楽家初代の田中宗慶の依頼により制作された。画風から長谷川等伯の作とされ、秀吉に仕えた等伯と利休の関係性を示す貴重な作品である。二つ目の肖像画(正木美術館)は、天正十一年(1583年)に利休が62歳頃の姿を描いたもので、こちらは利休の師である古渓宗陳の賛があり、秀吉の茶頭就任を記念して描かれた可能性が高いが、近年、土佐派絵師の可能性も指摘されている。等伯と利休は共に豊臣秀吉に仕え、茶会で重要な役割を果たしたが、その芸術性と精神性には明確な違いがある。等伯は華麗で力強い表現を得意とし、鮮やかな色彩や大胆な空間配置を用いた一方で、利休は侘び茶の精神を追求し、シンプルで静寂の中に美しさを見出す表現を重視した。このように、二人の芸術表現には対照的な側面を見出すことができるだろう。

芸術生成論3 『最高級の茶碗とは何か』

日本と中国の文化の優劣を比較することには意味がなく、日本文化は多くの要素を中国から取り入れ、独自に解釈してきたといえるだろう。その一つに、中国から伝わった屠蘇酒は日本でのみ新年を祝う風習として残った。天目茶碗は中国で生まれ、日本の茶の湯において重要視され続けている。茶道は日本で発展し、道具を鑑賞するための儀式として発展したといえるだろう。日本には中国製の陶磁器が数多く存在し、現在国宝とされる14点のうち9点が中国製である。天目茶碗は宋代の中国で作られた黒磁茶碗で、日本の禅僧が持ち帰ったことで日本に伝わり、茶道の中で重視されるようになった。天目茶碗は中国で消滅したがすべてが日本に残る。茶碗に「曜変」という名前を付けたのは日本の茶人である可能性が高い。天目茶碗はもともと抹茶点茶法の興起により生まれたもので、中国では時代とともに姿を消したが、日本には多くの天目茶碗が伝来し茶の湯に用いられた。

芸術生成論3 『最高級の茶碗とは何か』

日本と中国の文化の優劣を比較することには意味がなく、日本文化は多くの要素を中国から取り入れ、独自に解釈してきたといえるだろう。その一つに、中国から伝わった屠蘇酒は日本でのみ新年を祝う風習として残った。天目茶碗は中国で生まれ、日本の茶の湯において重要視され続けている。茶道は日本で発展し、道具を鑑賞するための儀式として発展したといえるだろう。日本には中国製の陶磁器が数多く存在し、現在国宝とされる14点のうち9点が中国製である。天目茶碗は宋代の中国で作られた黒磁茶碗で、日本の禅僧が持ち帰ったことで日本に伝わり、茶道の中で重視されるようになった。天目茶碗は中国で消滅したがすべてが日本に残る。茶碗に「曜変」という名前を付けたのは日本の茶人である可能性が高い。天目茶碗はもともと抹茶点茶法の興起により生まれたもので、中国では時代とともに姿を消したが、日本には多くの天目茶碗が伝来し茶の湯に用いられた。

芸術生成論2『京都のやきもの(初代宮川香斎)』

京都の陶磁器の歴史、幕末の京焼に焦点を当てる。起源を辿ると、平安、鎌倉、室町時代に京都が政治経済の中心であったため、陶磁器産業においても目覚ましい発展をしたといえる。本稿では、清水五条坂での陶磁器製品の生産が本格化し、色絵陶器を主体とした粟田口窯と新興磁器も生産する五条坂窯の二つが主流となった経緯を振り返る。文政年間に粟田口窯と五条坂窯の間で「粟田口・五条坂両陶家の抗争」が起こり、陶家の独占状態に挑戦した五条坂窯が高級色絵陶器の生産に進出し、最終的にはこの競争に勝利する。このような伝統と新興の融合が、仁清、乾山、頴川といった陶工たちが活躍する京焼の黄金時代を生み出したのだ。その中でもとりわけ強調すべきことは真葛長造の魅力だろう。

芸術生成論2『京都のやきもの(初代宮川香斎)』

京都の陶磁器の歴史、幕末の京焼に焦点を当てる。起源を辿ると、平安、鎌倉、室町時代に京都が政治経済の中心であったため、陶磁器産業においても目覚ましい発展をしたといえる。本稿では、清水五条坂での陶磁器製品の生産が本格化し、色絵陶器を主体とした粟田口窯と新興磁器も生産する五条坂窯の二つが主流となった経緯を振り返る。文政年間に粟田口窯と五条坂窯の間で「粟田口・五条坂両陶家の抗争」が起こり、陶家の独占状態に挑戦した五条坂窯が高級色絵陶器の生産に進出し、最終的にはこの競争に勝利する。このような伝統と新興の融合が、仁清、乾山、頴川といった陶工たちが活躍する京焼の黄金時代を生み出したのだ。その中でもとりわけ強調すべきことは真葛長造の魅力だろう。