芸術生成論9「抹茶の飲み方」

抹茶の飲み方は一番に礼儀作法、二番に抹茶の点て方が議論に上がるように思う。しかし、そのいずれも特に重要とは思えず、たしかに茶道のお稽古では各流派が、それぞれのもっとも最適とされる礼儀を教え、また点て方においても流派に従った作法が用意されている。では、飲み方の本意は何かといえば、まわし飲みをすることではないか。

礼儀や味は二の次なのだ。もし一人ではなく誰かといた場合、一つの器で、まわし飲みをしてみることに抹茶の飲み方の一番大事な要素が隠れていると思っている。

このまわし飲みだが、専用の抹茶碗が無いとお思いの方もいるかも知れない。抹茶は手持ちのコーヒーカップでも平皿でも何であっても、漏らない器であれば良い。まずは形という要素を除いて、ただ誰かとまわし飲みを実践してみるということに挑戦したい。

抹茶のまわし飲みというのは不思議な作法である。ふだん一つの飲み物を一同で共有する習慣のない日本人にとって、見知らぬ人と同じ器に口を合わせるのには抵抗感がある。なぜ、まわし飲みをするのか、それを考える前に、なぜ抵抗感があるの考えてみよう。ことに日本人は口をつける器に潔癖だ。われわれは器を手で持つとき、なるべく縁に指をかけないようにする。碗や丼の内側に指をかけることはまことに不作法になってしまう。

われわれの唇を直接つけるもの、たとえば湯飲みなどはすべてを個人に所属している。かつてはどの家でも父親の茶碗、母親の茶碗というのが決まっていたはずである。職場でも、湯飲みだけは一人ずつ決まっているようだ。親子、兄弟といえども共にしない強い個人主義が貫かれるのが唇の領域である。もしそうならば、他人のふみ込んではならない唇の領域に強引にふみ込んだならば、どうなるのであろうか。最初の反応はもちろん、拒否である。しかし、一度それを受け入れてしまったら、互いにもはや他人ではなくなった、という状態になる。 逆にいえば、他人の関係ではなくなる儀式が唇の領域を共にすることであった。代表的なものは結婚式であろう。夫婦の契りを結ぶ三三九度の盃を新郎新婦で共にする。親類、縁者の見守るなかで、公然と同じ盃をかわすことに意味がある。こうした酒をまわし飲みする習俗は日本に限らず世界中に広くみられる。

同じ器から同じものをまわし飲む儀礼は洋の東西を問わず、かたい盟約を結び、一心同体の関係を結ぶために必須の儀礼であった。こういう儀礼を共同飲食という。同じ器で同じものを一緒に飲み食いする行いが、いかに人と人を強く結びつけるものか再説するまでもない。世界中どこにでも見いだせるこの習慣を、ことに唇のタブーの強い日本で抹茶のまわし飲みとり入れた茶会とは、まさに共同飲食の儀礼をもっとも高度に洗練させた文化だったといえるだろう。

まわし飲みという作法は江戸時代の茶書によると千利休が考案したとされる。濃茶の点法が複雑で、一服ずつたてていたのでは時間がかかり過ぎる。そこでまわし飲みで簡素化しようとした。一服ずつたてる作法を当時の言葉で各服点てといい、それに対してまわし飲みは吸い茶という。

吸い茶という言葉が茶会記に登場する最初は天正十四年(1586)である。このとき、すでに千利休の晩年であった。この言葉は頻繁に茶会記に見える。事実、利休の茶会でまわし飲みが好まれる傾向にある。2年後の天正十六年九月四日の茶会は、豊臣秀吉から調査の依頼を受けた禅僧古渓 宗陳である。古渓とは利休がもっとも信頼した禅僧である。その古渓が秀吉によって京都から追放されることになった。利休は大胆にもその古渓を秀吉のお膝元の聚楽第の利休屋敷に招いて送別の茶会を開いた。しかも、床の間の掛物は有名な生島虚堂と通称される虚堂智愚の墨跡である。この生島虚堂は利休所持の墨跡ではなく、主君秀吉所持の名物なのだ。たまたま秀吉から表具を修理するように命じられて利休が預かっているにすぎない。「上ニハ隠密ノ儀」、つまり秀吉には秘密で古渓送別の茶会に用いたというわけである。ことが露見すれば、どんな罪に問われるかわかったものではないが、 利休にはこうした豪胆なところがあったのだ。(秀吉にはばれずに、およそ500年後の私たちにばれてしまったのは面白い)

茶会の正客は古渓の先輩にあたる春屋宗園。次客に古渓、末客が三井寺の本覚坊であった。利休は茶を点てるに、正客の春屋には茶を茶杓に三すくい、湯を少なくして点てた。濃茶の点て方である。つぎに茶を五すくい入れて吸い茶にした、と茶会記に記されている。五すくいで二人は現代の感覚では、ちょっと少ないようにも思うが吸い茶とあれば間違いなくまわし飲みである。正客の春屋宗園には敬意を表して各服だてとし、次客以下はまわし飲みとしたわけである。こうした挿話からもうかがえるように、利休自身、まわし飲みを点前として確立していたことは事実だが、時間短縮の効果のためにまわし飲みをしたと解釈するのは誤りである。

 

 (拙い自作の樂茶碗で抹茶を飲むのも一入である)

 

まず第一に、本稿の主眼は抹茶をまわし飲みので時間節約をはかることではなく、一碗の茶を共にして盟約を結び、親しみを深めることにあった。このまわし飲みは利休の時代に一般化し、利休によって点前作法として確立されたことは確かである。すでに『松屋会記』の永禄六年(1563)の松永久秀の茶会をみると、一同はまわし飲みをしている。この例からみて、まわし飲みはむしろ武士や民俗的な酒の飲み方にはじまるものかと思われる。中世の民衆が村人どうしの掟を決めるときに、神に誓いその誓紙を焼いて、灰を水に溶いて一同がまわし飲むということがあった。一味同心である。酒の儀礼にも同様のことがいくらもある。つまり、中世の人びとの生活に根ざした一味神水の作法が、同じ中世人の生みだした茶の湯に取り入れられて、茶の作法として確立したのであろう。そのとき、毒味なしの茶に不安を感じる戦国武士にとって、主客ともども一碗の茶をまわし飲むことは、いっそう具合のよいことであっただろう。

利休によって確立された茶の点前作法はあまりにも戦国的であった。しかし、現代においては唇による抵抗をはらった上で、抹茶のまわし飲みを正しい実践としたいのだ。

抹茶をまわし飲みすることは、時間の短縮よりも他人との関係の延長にあるように思う。

  

(ARTS&SCIENCE Aoyamaで衝動買いしたコップである。小さなコップでまわし飲みをしてみるのも一興である)

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