芸術生成論6「石黒宗磨陶片集」

https://www.momak.go.jp/senses/abc/ishiguro/


デジタルの世界で広がる新しい作品との触れ合いで、「デジタル・ミュージアム」という試みが非常に興味深い。
これは実際に美術館や博物館へ足を運ばなくても、インターネットを通じてさまざまな芸術作品に触れることができるようにするものだ。
陶器の分野では、京都国立近代美術館が公開した「ABCコレクション・データベース 石黒宗磨陶片集」が充実している。
このコレクションは、2020年に始まったABCプロジェクトの一環として提供されている。
アーティスト(Artist)、視覚障がいのある人(Blind)、学芸員(Curator)が協力して、さまざまな感覚を使って作品を鑑賞する方法を開発することを目的としている。
陶器の破片の画像にカーソルを重ねると、その破片を指でこすったり叩いたりしたときの音が自動的に再生される。
カサカサ、ザラザラ、コツコツといった陶片ごとに異なる音を聞くことができ、視覚だけでなく聴覚を使って作品を体験することができる。
このようなデジタル技術を活用することで、視覚に障がいのある人々も含め、多くの人々が陶器の質感や重さを想像しながら楽しむことができる。
陶器はその表面の凹凸や重さなど、物理的な特徴を感じ取ることが魅力の一つだ。
そのため、デジタル・ミュージアムでは、これらの要素を音や触覚のシミュレーションを通じて伝える工夫がなされている。
このような取り組みは、単にデジタル化するだけでなく、より多くの人々がアートに触れる機会を提供してくれる。

 

ホームページに記載されている紹介の文言をそのまま引用する。

「ABCコレクション・データベース 京都国立近代美術館では、見える・見えないに関わらず誰もが楽しめる作品鑑賞のあり方を探る「感覚をひらく——新たな美術鑑賞プログラム創造推進事業」を行っています。2020年度より、作家(Artist)、視覚障害のある方(Blind)、学芸員(Curator)がそれぞれの専門性や感性を生かし、さまざまな感覚を使う鑑賞方法を創造する「ABCプロジェクト」を立ち上げました。今年度の本プロジェクトは、八瀬陶窯から掘り起こした26個の陶片をもとに中村裕太は陶片にみる技法の研究、安原理恵は陶片を触察し言葉にすることで、石黒の陶器作りを解きほぐしてきました。さらに、それらの考察をもとに、学芸員は当館のコレクションとのつながりを再構築してきました。今後、本データベースは、さまざまな作品・資料を領域横断的に取り入れていくことで、より有機的で多層的な当館コレクションのネットワークを創造していきます。」

 

充実したコンテンツだが、特に印象的だったものを4つ引用する。

「ホトケ_ヲ_ホル 石黒の描いた仏様は、異国情緒溢れた顔立ちである。1940年1月に真清水敬四郎[三代蔵六](1905-1971)と中国東北部と朝鮮半島を旅している。朝鮮慶州の寺院で撮られた石黒のポートレートの背景には、陶製と思われる浮き彫りの仏様が壁面を埋め尽くしている。石黒の弟子であった清水卯一(1926-2004)によると、石黒は無神論者であったが、東福寺によく通っていたという。また二十代の頃には「佛山」を銘としていた。八瀬霊苑にある石黒の墓には、妻とうの墓とともに石黒が所有していた観音菩薩の石仏が移設されている。」

「チョーク_ノ_ハシリ 石黒は目新しい技術にも貪欲だった。京都市試験場は上絵の顔料にふのりを混ぜて乾燥させ、固めて棒状にした「上絵チョーク」を開発した。石黒はそのチョークで壺や大皿にバレーの踊り子やバラの花などを勢いよく描いている。清水卯一によると、石黒は一度もバレーの公演をみたことがないという。石黒のスケッチは、コンテを使って描いたものが多い。スケッチブックにコンテで描いていくように、器に描くことのできる上絵チョークの特性に惹きつけられたのだろう。この陶片は、何を描いているのかは分からないが、チョークが走っているのは分かる。《チョーク絵色釉皿》は、掛け分けされた釉薬の上に八橋を架けたようなチョークの模様が描かれている。」

「サイコロ_ノ_メ 石黒が作ったものか分からない。サイコロの「6」の裏は「1」で、「5」の裏が「2」、「4」の裏が「3」であるが、このサイコロは、「1」の裏が、「3」である。組み合わせがあべこべである。けれど、よくよく見ると、点の打ち方が少しずつ違う。「1」は点が大きいし、「5」や「6」は小さく押されている。しかも、何か鋭利な道具ではなく、木の枝かなにかで押されたようにも思える。石黒が何かの遊びに使ったのか、八瀬を訪れた子供がこしらえたのか。推察の域はでないが、手遊びでつくったとしても焼成まで行っているところをみると、何かしらに使われていたのではないか。石黒の作品によくみられる連続した「点」は《鉄文壺》にも見出すことができる。轆轤を回転させながらリズミカルに筆で点々を描いている。」

「ナマコ_ノ_カケワケ 石黒は蛇ヶ谷時代から中国の古陶磁を写していた。そのなかでも鈞窯は石黒が得意とした技法の一つである。こうした海鼠釉による鈞窯は、京都を拠点に作陶した河井寛次郎(1890-1966)の陶器にもみることができる。河井は、1921年に東京京橋高島屋にて「第一回創作陶磁展」を開催し、中国や朝鮮の古陶磁を逐った陶器を発表した。当時の新聞や評論家に絶賛される一方、思想家の柳宗悦(1889-1961)は、そうした作陶の方法に不服を申し立てる。その後、河井の作陶は、柳らと民藝運動を協働するなかで、古陶磁の写しから暮らしに即した陶器作り、さらに表情豊かな造形へと展開していく。一方で、石黒はその陶器作りの手法を大きく変えることはなかった。石黒は鈞窯をはじめとしたさまざまな技法を組み合わせることを手法とした。だからこそ、その素材選びや技術開発に対する探究心は凄まじい。清水卯一によると、石黒はどこをいくにもリュック一杯に釉薬の原料を担いでいたという。そして石黒は、千葉県の房州の磨き砂の中に入った鉄分が釉薬に反応することを発見する。この陶片は、流し込みによって海鼠釉の上に銅で濃いブルーの線が掛け分けされている。」

 

最後に、少しだけ石黒宗麿について紹介する。
石黒宗麿(1893年4月14日 - 1968年6月3日)は、富山県射水市出身の陶芸家である。多くの作品は射水市新湊博物館に収蔵されている。
医師の長男として生まれ、魚津中学校や富山中学校を経て、慶應義塾普通部に転学した。
1919年、東京美術クラブで曜変天目茶碗「稲葉天目」に感銘を受け、陶芸に志す。
1935年に京都市八瀬に窯を築き、1941年に宋窯の技法を解明した。
鉄釉を中心に、唐三彩や均窯などの技術でも高い評価を受け、1955年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。また、社団法人日本工芸会の理事として伝統工芸の振興に尽力し、富山県新湊市名誉市民にも選ばれた。
1963年に紫綬褒章、1968年に勲三等瑞宝章を受章。晩年は福祉活動にも貢献し、1968年に死去した。墓所は八瀬霊苑にある。

 

 

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