猪飼祐一様との対談

今回は、猪飼祐一様の壺屋喜兵衛窯(つぼや・きへえ・がま)にお伺いして、お話をさせていただきました。
【猪飼】→ 猪飼祐一(いかい ゆういち)様
【西村】→ 西村一昧(にしむら いちまい)甘木道 店主


【西村】本日の夜は講演会がありましたか?

【猪飼】いえ、今日は会議ですね。

【西村】講演などされる機会は多いのですか?

【猪飼】明日からは陶器の学校(京都府立陶工高等技術専門校)があり、そこで実技などいろいろ喋ります。

【西村】学生さんは多いのですか?

【猪飼】2年コースの方のみなんで、10人です。

【西村】2年間を10人で過ごすと濃い2年間になりそうですね。どういった内容をお話しされるのですか?

【猪飼】陶器の専門校は職人さんを養成するのが主です。作家さんになる方も多いので、決まりきったろくろの仕方ではなく、個性を出すのはどういうことなのかを学生さんに伝えています。

【西村】それは技術よりも心構えとか、どうやって生きていくかとか、そういったお話しでしょうか。

【猪飼】そうですね。学校では職人さんとして個を出さないというのが基本ですので、個性を出すのはどういうことなのか、というのを学生さんに伝えています。窯元に勤めはじめると、前につくったものと違ったものはもう作れません。決められた寸法を守らなければならない。ろくろの段階で個性を出したら次の者が作れなくなってしまいますからね。その学校を出て、どこかに修業に行かれるのでしたらそこで教えてもらえますが、いきなり独立される方も今は多いです。そうなると学校で教わったことがすべてになってしまって、ろくろと削りの仕方がみんなが同じやり方になってしまいますね。

【西村】作家ですと10人とも同じものを作っていたら良くないですね。

【猪飼】土もののろくろを教えに行くのですが、学校では総削りを教えている。僕が作っているものはほとんど削りません。高台際をちょっと削るぐらいです。そういうろくろの仕方を教わっていないと、何でもかんでもちょっと分厚めにひいて、ざっと削る。削ってラインを出す方法ばかりになります。荒い土を使うと削ったりできないので、ろくろだけで完成させるのも大事です。

【西村】なるほど。私は趣味で大学生がする落語を見に行きます。1年生が入学してしばらくすると「新人勉強会」といった風に新入部員が落語をします。すると決まってたいそう面白いのです。次に、秋ごろに4年生が卒業公演をするというので見に行ったのですが、この面白さはあまり1年生と差がなかった。私はとても難しいことだと思いました。落語にはもしかしたら上達というのがないものなのかも知れないと思ってしまうぐらいでした。陶において上達とはどういうことなのでしょうか?

【猪飼】今の陶器の学校のカリキュラムは、大学とは違って専門学校的です。朝から晩まで同じことをします。職人を養成する目的です。僕もそうでしたが、まったく土を触れたことがない、もしくはどうやって作るのかも知らないくて、ろくろ自体も知らない。そういう方でも1年経てばそこそこ作れるようになります。つまり、小さな壺ぐらいまででしたらできます。ご飯茶碗や湯飲みや徳利はうまい下手は別にして、できるようになるのです。やっぱり職人を養成する学校であって、京都府がお金を出して、ほとんど学費ゼロで京都の職人さんを養成しています。しかし、今は地方からも多いですし、女性も増えました。僕らのときは女性は入れませんでした。ろくろ師は男、絵付けは女の時代でした。

【西村】そうなんですね。時代は変わりますね。ホームページを拝見させていただきました。プロローグを読んで、まず師匠である清水卯一先生につかれました。京都のみならず、備前や他の産地にも目を向けられていたと思います。

【猪飼】10代は焼きものに興味はなかったので、焼きものを良い悪いで見ていなかったです。陶器市の手伝いはしていたので売れる・売れないぐらいしかわからなかった。「これいいな」とかはまだその時は思ったことがなかったのです。これがどこの産地とか知らなかったし、16歳ぐらいの頃は、清水焼という存在も意識してなかった。陶器の学校に行って、備前や信楽などの土ものがあると知り、そこに興味がわいた。たまたま出会った師匠が土ものでもあるし、中国や朝鮮の焼き物も模倣して自分なりに解釈して作られていた。陶器の学校に入って1週間ぐらいで、僕は土を伸ばしたり、わりと最初からできた。学校では出来ない人もいるし、3年ぐらい働いていてから入学した人はよくできる。僕はそこで気を良くしたのか、楽しかったです。料理の修業もテレビドラマを見て良いな、と思っていました。陶器の先生はさらっとできるのに、自分はさらっとできない時もある。しかし、ある時ふっとできるようになる。そういう楽しみがある。そして、さらに上を見るとすごい職人たちがいました。

【西村】興味深いお話です。

【猪飼】陶器の学校を出て、まだ家にあるような売れ筋をやろうとしていた。師匠から「君は商売人の子やな」「これは商品やな」などと言われていました。今でも説明は難しいところですが、商品と作品は違います。商品寄りの作品もあれば、作品寄りの商品もある。

【西村】なるほど、それは一定のレベルに達すると自在に作れるようになるのでしょうか?

【猪飼】色々な手を持つというのがあります。しかし、一手しか意識がない作家もいます。ここしか作らないという作家もいます。僕は家が商売人でしたので、師匠と、そのさらに先代の作品を見てみると師匠にも商品寄りの作品がある、師匠も商売人の生まれでした。しかし、石黒宗磨さんは商品臭さが一切ない。昨日も仕事場からいっぱい持って帰ってきて、先ほど洗っていたのですが、石黒宗磨さんはどんな小さな陶片を見てもわかる。

【西村】それは、つまり陶片に石黒宗磨さんらしさがあるのですか?

【猪飼】すぐにわかります。雰囲気で。

【西村】それはすごいことですね。

【猪飼】陶器はオリジナルを考えます。オリジナルであっても日本や中国の焼きものを自分なりにアレンジして全く違うものへ転化させていく。師匠はすごいテクニックがあった。職人技を超えた技を持っていた。石黒さんはテクニックはあまりお持ちではないが、それ以上にオリジナルがすごいのです。現代で見ても洒落ている。現在、コンピュータの仕事をしている人や、グラフィックデザインの人から同じような指摘があり「おしゃれですね」と言わせるような普遍的な感覚がある。僕も石黒宗磨さんに傾倒したことがあり、真似しようと思っていたこともあります。

【西村】私は猪飼様の青磁釉で動きのある作品もすごくオリジナル性を感じます。


【猪飼】もとは岡部嶺男さん、加藤唐九郎さんの息子さんですが、その方に影響を受けて作っています。あえて上手につくらず、分厚めに、土もろくろをしにくいようなものを使っています。技術を見せびらかすのではなく、土をひけたなりで、土の表面をスクラッチしています。青瓷は、もともと皇帝にお納めする中国では歪みが一切あってはいけなかった。しかし、岡部嶺男さんは、青磁を日本風に作られた。それはろくろの達人であったからできることでした。青磁は釉薬は分厚くかかり、生地より分厚くなるぐらいです。元の土台がよっぽどうまく作れないといけない。分厚くかけることが前提なので、重くなりすぎるし、形がぼやけてしまいます。僕も焼き物をはじめてすぐに月下釉をやっていたので、よく売れました。でも、師匠から「やめとけ、これを作る技術をまだ君はもっていない」と言われました。色が綺麗だから売れるだけで、「若いときに技術を磨くことをしておかないと結局後で後悔する」と言われました。そこで、青磁や月下釉を一度止めて、灰釉をするようになりました。灰釉は薄いので土台が全部見えてくる。作り手のちょっとしたことが全部見えてくるので、それができてからでした。ですから、厚い薬はやらない時期がありました。日本では青磁をされる方は中国に憧れて作られる方が多いので、どうしてもかちっとした崇高な気品の高いものを作られる作家さんが多いのです。ある時、東京の 黒田陶苑さんが、「猪飼さん青磁やってみないか?(嶺男さんみたいな、土もののろくろをずっとしているから)」と言われて、薄い薬で青磁をやるようになりましたが、それでも3年はかかりました。やっとこういうものができだして、黒田陶苑さんには褒めていただけました。やっぱり土もののろくろができる人でないと、嶺男さんの雰囲気にはならない。

【西村】大変、興味深いお話です。


【猪飼】こちらは2度焼いています。灰釉で一度焼いた緑と、織部の緑は本来、同じ釜では出ないが、出ている状態ですが、プロの人がみたら、「なんで織部の緑がでているの?」と言われます。


【猪飼】こちらは、登り窯で焼いて灰が降りかかって窯変している。松の灰が降りかかっています。一般的な井戸より小ぶりですが、かなり温度が上がっています。みなさんが目指されるものなので、井戸って言うより井戸手としています。「手」は真似ていますよ、という意味があります。井戸の茶碗は本歌があるから、よっぽどオリジナルな形があれば名乗りやすいです。


【猪飼】南蛮は、本来は焼き物に向かない土をつかっています。いくら焼いても焼き締まらない土を使っています。釉薬がとけない土を、何度も何度も焼いています。焼きものは土と釉薬が溶け合って密着するのですが、まったく溶けない。これは「原料屋からこんな土があるけれど」と言われて使いました。壺も横に寝かしたら普通はへしゃげるところ、まったくへしゃげない。耐火度が高すぎる土です。艶がなく光らないのが面白いです。


【猪飼】下地に白いどっぷっとした釉薬をかけて、その上に緑に透明の釉薬をかけています。白い釉薬は萩の薬に近く藁灰が多い。緑の薬は松とか樫・杉など一般的な樹木をつかっています。白く濁るのは、ストロー状になって早く育つ竹とか、そういった焼けにくいので強く、単体では溶けず白く濁ります。

【西村】花入れも力強く、置く場所に変えると明かりの具合か見え方が違って良いなと思っていました。


【猪飼】焼きものを始めて登り窯にあこがれました。ご存知の通り京都は登り窯ができなくて、昔はできたのですが、なかなか昔の若い人々は場所を貸してくれなかったようです。走泥社の八木一夫さんも初期は窯の一番後ろでしか焼けないものでした。その悔しさについてご本人から伺いました。「いつかは窯持ちになってやる」と、それがモチベーションだったみたいです。僕の師匠も端の方しか最初は使わせてもらえなかったそうです。

【西村】写真でしか拝見したことがないのですが、オブジェ焼のザムザは端の方にいたのですね。

【猪飼】そうですね、温度の上がらない捨て間で焼かれたようです。今、登り窯は南丹市にあります。陶産地であったなら理解があるのですが、松を焼く煙の臭いは独特で、田舎で一般的な藁を燃やす臭いとはまったく違います。タイヤを燃やしたように煙も黒く、難しい問題もあります。しかし、登り窯が良くて電気がだめとかは、まったくありません。適したものを適したやり方でやるのが良いのです。飽きないものを、特に食器に関してはそういうのを作れたら良いな、と思っています。常に食器棚の上にある。すぐ使えるところに置いてあるものです。

【西村】特別な日だけじゃなく、普段から使えるものも良いですね。

【猪飼】作家である以上、個性はきつく出さないとだめだと思いますが、もともと僕は隠す方が美学として、あえてすべてをさらけ出したいわけではありません。



【西村】それは京都らしさというものと関係ありそうですね。

【猪飼】若い頃のファッションにしても、一番流行っているトレンドより誰も買わないものを買うというのをしていて大事にしています。そういう感覚が焼きものにも反映されていると思います。