芸術生成論8「奈良の陶器について」

 

 

 奈良の陶器(陶芸)といえば、赤膚焼が代表的である。ほかに柳生焼など素晴らしい作品群もあるが、赤膚焼としては現在7軒の窯元があり、一定の特徴を見せる。
 奈良は南都の西郊に位置する五条山一帯に展開していった雅陶といえるだろう。茶の湯とのゆかりも深く、小堀遠州が創始したと伝える「遠州七窯」の一つに数えられているぐらいだ。五条山から西ノ京一帯にかけての丘陵地は菅原の地に隣接している。菅原とは、古代に土器・瓦器造りに主導的役割を担っていた土師氏の本拠が営まれたところである。つまり、良質の陶土を産出し、早くから窯業が展開したところであった。そうした立地条件に支えられた窯業の伝統は中世期においても引き継がれている。
 鎌倉期には、大和国小南荘(現在の西ノ京とその周辺地域)では「火鉢土器」の生産が行われていた。次いで室町期には、土器座・瓦器座・火鉢座などの諸臣が、それぞれ南都興福寺をその本所として結成されていた。諸座の陶器製品は、単に南都諸社寺や民間の需要を満たすだけではなく、京洛にまで及んで販売しており、当時の南都を代表する主要な手工業品として着目されていたのである。また、南都西ノ京製の土風呂は、茶の湯の流行にともなって、「奈良風呂」の名称を冠して次第に有名となり、茶人の間でさかんに用いられるようになった。名土風呂師とうたわれた西村善五郎家はその顕著な例である。
 永楽善五郎家は、幕末までは西村姓を名乗り、十一代保全まで代々土風呂造りを生業としていた。初代善五郎は西京に住して、春日神社供御器を提供した土器造り師であった。善五郎家は、中世における土器座・火鉢座の座衆の系譜にかかるものと考えられよう。このように、古代から豊富で良質な陶土産出を背景にして陶器生産の中核をなしてきた奈良は、中世では火鉢をその主要製品として生み出し、室町末期から近世初頭にかけては、「奈良風呂」のすぐれた産地としてその評価を高めた。しかし、西村善五郎家がその二代の時、西ノ京から堺に移住してからのもの、この地域における陶器製産の実態は淡としている。なお、西村善五郎家が、堺からさらに京都に移ったのは三代の時であったとされる。 
 江戸時代にあって大和国の焼物を代表した赤膚焼の成立は、まさにこうした立地条件と、それを基いとした陶器生産の伝統を継承して生まれたのだろう。ところが、江戸期における赤膚焼の遠例は数多く知られているのだが、いつの頃から行なわれるようになったのか、つまり開窯の時期の設定となると必ずしも明確にされているわけではない。こうした開窯の時期、あるいは赤膚焼の名称の成立、窯業の実態をめぐっての問題については、これまでもさまざまな諸説が出されてはいるものの、いまだ確定するにはいたっておらず、未知の問題を数多く含んでいる。

「赤膚焼」の再興は、寛政八年の段階に設定するのが通例であるが、ただこの年に突然にはじめられたとか、あるいは「あかはだ山」においてのみ行なわれたとするのは正しくない。近接する地域では、すでに陶器生産が行われていたとするのが妥当な見方であろう。なぜなら、「宝暦年製」との銘文をもつ「東大寺油壺」形陶器をはじめとし、寛政期以前に比定される遺品も若干ながら存在しているからである。いずれにしても、赤膚焼が盛行するようになった時期が、寛政年間であったことについては確実である。
 元来、赤膚焼の研究といえば、郡山藩主柳沢保光(秀山)との関係、あるいは中興の祖と称される奥田木白の陶芸作品が対象とされてきた。これらは今までに多くの成果をもたらしてきたと同時に、実にさまざまな解釈を導き出してきた。こうしたいわば美術史的観点からの観察は、いきおい作品にのみ集中するため、どうしても一部の好事家たちによらざるを得なかったことは否定できない。
 奈良は、南部の西郊、五条山の丘陵一帯に展開した赤膚焼は大和の雅陶である。この地域における赤膚焼の淵源は、五条山に隣接する西京の地に発達した中世の春日社興福寺の西京土器座の成立にもとめられる。西京は、右京二条大路以南の九条まで、そして一坊から四坊にわたっての地域である。この地に鎌倉時代、土器座が成立する。土器座は、赤土器座と白土器座に分かれていた。赤白の両座に分かれたいわれは、春日社では神主(大中臣氏)方は赤土器、正預方(中臣氏)は白土器を用い、朝御供に赤土器、夕御供に白土器が用いられたところに由来するとされている。春日大社と興福寺は西京在住の土器作手をそれぞれに利用していたのだが、やがて興福寺が春日大社の実権を握るに伴って、興福寺が支配するようになり、さらには大乗院門跡と、一乗院門跡のそれぞれが土器座を成立せしめたことが明らかにされている。東大寺やその他の寺門を本所とする土器座も結成されていたと思われるが詳細は明らではない。ついで、大乗院門跡に所属する西京火鉢座が成立する。奈良火鉢と奈良風炉(土城)が主要製品であった。両者らに三代の時に京都へ移住したとされている。

 近世に展開する赤膚焼は、こうした中世に発達した西京土器座や西京火鉢座の窯業の伝統が母胎になったことは南部にとどまらず京洛におよんで販売された。ことに茶の湯の流行にともなってその需要はおおいに高まった。「山上宗二記」の異本といえる「茶器名物集」(1558)に「奈良風炉西京家四郎五条奈良天下一作意二有」とある。宗四郎とは、三代西村善五郎(宗全)の弟のことである。西村善五郎は代々の土風炉造りを家業としおり、初代西村宗印は春日社神人として西京に住し、春日社供御器の土器師であった。茶道の千家十歳の一つに数えられる永楽善五郎家の元祖とされている。そして、現在赤膚焼 春日御土器師 尾西楽斎となっている。

 長文になったが、古窯、旧窯、新窯の経緯をもう一度簡潔にまとめて終わりにしよう。
 古窯の歴史は、古代の土師氏による埴輪製作にまで遡る。万葉集に詠まれた「青丹よし」の枕詞は、奈良山に良質な粘土が存在したことを示唆しており、この地が古くから陶器製作に適した環境であったことが分かる。
 中世に入ると、地域社会の経済を支える重要な役割を果たしていたと考えられる。春日大社や興福寺などの神仏への供御器製作が盛んになり、「春日赤白土器座」や「西京土器座」といった同業組合が結成された。これらの座は、神事との深い関わりを持ちながら、神事と深く結びつく。良質な土と、神仏との深い関わりが、この地での陶器製作を永続的に支えてきたと言える。

 旧窯の成立と発展
 幕末以降に作成された赤膚焼に関する書物『陶器考』『本朝陶器巧証』『工芸志料』などによると、奈良の赤膚焼は、豊臣秀吉に仕えた茶人の小堀遠州が指導した七つの窯元「遠州七窯」に数えられる。
 開窯の時期や人物については諸説あり、天正年間には豊臣秀長が常滑から陶工を招いて開窯したとする説や、正保年間には色絵京焼の陶工・野々村仁清が窯を始めたとする説などが存在する。これらの説から、赤膚焼は複数の段階を経て発展してきたことが窺える。その後、赤膚焼は一旦衰退期を迎えるものの、これらの旧窯の時代から産業として確立されたと考えられる。

 新窯の開窯と赤膚焼の復興
 新窯は、寛政年間(1789-1801年)に郡山藩主の柳澤尭山によって開かれたのが一般的である。尭山は、当時衰退していた窯業の復興を目的に、京都や信楽から陶工を招き入れた。特に、治兵衛の窯には赤膚焼の窯号や「赤ハタ」の銅印が与えられるなど、郡山藩御用窯として重用された。当時の記録によると、「五条山には東の窯、中の窯、西の窯があった」とされており、赤膚焼の生産が盛んに行われていたことが伺える。

 奈良の陶芸の歴史は、古代から続く長い歴史と、様々な人物や出来事によって彩られている。良質な土、神仏との深い関わり、そして人々のたゆまぬ努力が、この地で独特の陶器文化を育んできたと言えるだろう。

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