芸術生成論27「古田織部の美学」

古田織部の美学

“人とは違うことをせよ”という挑発的精神が生み出した、斬新かつ大胆な「へうげもの」の世界。日本の茶道史を語るうえで、どうしても外せない“破格の個性”の持ち主がいます。それが古田織部(ふるた おりべ)。本名は古田重然(しげなり・しげてる)、安土桃山から江戸初期にかけての武将にして茶人、さらには建築・作庭にも腕を振るった芸術家でした。千利休が大成させた「わび茶」をベースにしながらも、静寂・渋み・枯れといった美意識を大胆に覆し、「動」の造形美を取り入れて“織部好み”と呼ばれる大流行をもたらします。そんな古田織部の革新は、華々しい一方で最後は権力と衝突し、切腹を命じられるという非業の最期を遂げました。しかし、その残響は「織部流」として、あるいは織部焼・織部茶器のかたちで、いまも強く息づいています。本稿では、武将・茶人としての古田織部の生涯、その美学の根源や創造力がどのように発揮されていったのかをひも解いてみましょう。


1. 武将としての古田織部――戦国~安土桃山の荒波を乗り越える

1-1. 美濃国に生まれ、信長に仕えて出世

古田織部(重然・重てる)は、天文12年(1543年)または天文13年(1544年)に美濃国(現在の岐阜県)で生まれたと考えられています。父・重定(勘阿弥)もまた茶道に通じていたと伝わり、子の重然にも何らかの“数寄”の素養を伝えた可能性があります。
しかし若き左介(古田織部の幼名)は、すぐに茶の湯へ入ったわけではありません。むしろ武将としての道を歩み出し、織田信長の美濃攻略以降は信長の配下として仕えます。1570年代には山城国(現・京都府)の代官職につくなどして、一定の武功と政治手腕を発揮。義兄にあたる摂津の土豪・中川清秀が荒木村重の反乱(有岡城の戦い)に同調した際、清秀を説得して織田方に戻す功績を立てるなど、武将として着実に評価を高めていきました。

1-2. 秀吉への仕官と「織部助」の叙任

本能寺の変(1582年)で織田信長が倒れたのち、古田織部は豊臣秀吉に仕えます。賤ヶ岳の戦い(1583年)や四国平定、九州平定にも参陣し、一定の軍功を挙げることで秀吉の信任を得ると、天正13年(1585年)には従五位下織部助に叙任。ここで「古田織部」「織部正」の名が広く浸透していきます。
秀吉の枕元で話し相手を務める“御伽衆(おとぎしゅう)”にも加えられたと言われ、いわば秀吉からの厚遇を受けた数寄武将として一目置かれるようになりました。

1-3. 関ヶ原から徳川幕府成立へ――再び仕える天下人たち

秀吉の死(1598年)の後、政治は五大老・五奉行が主導する形になりますが、1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が台頭し、最終的には江戸幕府が成立します。古田織部は関ヶ原の戦いで東軍につき、それが功を奏して戦後には1万石を与えられ、大名の地位を確立しました。さらに二代将軍・徳川秀忠の茶道指南役に抜擢され、幕府の公式茶人ともいえる立場にまで昇進。かつての秀吉や徳川家康、秀忠らから熱い支持を集めた「筆頭茶堂」として、全国の大名に多大な影響を及ぼす存在へと成長していきます。

1-4. 嫌疑と非業の最期――徳川家康により切腹を命じられる

しかし、慶長19~20年(1614~1615年)の大坂の陣で事態は激変します。古田織部の家臣や息子が豊臣方と内通し、京都を放火して徳川軍を討つ計画があるという嫌疑がかけられたのです。真実は定かではありませんが、幕府はこれを重罪とみなし、大坂落城後の慶長20年(1615年)6月11日に古田織部は伏見の自邸で切腹を命じられます。彼は一言の弁明もせず、そのまま73歳の生涯を閉じました。江戸幕府にとって、あまりにも斬新な感性と多大な人脈を持つ織部が、豊臣方と通じた可能性を容認できなかったのかもしれません。


2. 茶人・古田織部の軌跡――千利休からの“人と違うことをせよ”

2-1. 遅咲きの茶会デビューと“利休七哲”

武将としてはすでに功績を挙げていた織部ですが、茶の湯の初出は天正11年(1583年)頃、四十歳前後にしてようやく史料に名が見られます。これが遅咲きといわれる所以です。にもかかわらず、師匠である千利休からは「人と違うことをせよ」と教えられ、その助言を見事に体現してみせます。結果として「利休七哲」の1人に数えられ、同門の前田利家や細川忠興、蒲生氏郷などと並び、急速に頭角を現すこととなるのです。

2-2. 利休との師弟関係――最後まで消えなかった深い敬慕

千利休が豊臣秀吉との対立で切腹に追い込まれる(1591年)直前、弟子の多くは秀吉を恐れて距離を置きました。しかし、古田織部と細川忠興だけは堂々と利休を見送り、その後も助命を嘆願したと伝わります。利休は織部にとって単なる先生ではなく、茶の湯の精神的支柱そのもの。利休の「わび茶」は、寂静と調和を極める哲学でしたが、そこに「人とは違うことをせよ」という言葉を残したことで、織部は利休の型にはない革新的スタイルを生み出す道を歩むこととなりました。

2-3. 利休の死後、“天下一の宗匠”へ――武家茶道を興す

利休が死去すると、豊臣秀吉は“町人の茶”である利休の侘び茶に加え、武家社会にふさわしい新たな茶道を求めるようになります。そこで重用されたのが織部でした。
織部自身もまた、大名の立場で武家の感性や儀礼をよく理解しており、それまでの私的で内向的な侘び茶を「公の茶」「儀礼の茶」として発展させます。こうして誕生したのが「織部流」の武家茶道であり、千利休の精神を受け継ぎながらも、大胆・奇抜・自由闊達という色彩を帯びた流派が全盛期を迎えます。


3. “織部好み”という革新――茶器・建築・作庭に見る破格の芸術性

3-1. 織部焼の誕生――歪み・破調・大胆な絵付け

織部が最も有名なのが「織部焼」。美濃の陶工たちを指導し、歪んだ形や破調(わざとアンバランスにする)を意図的に取り入れることで、斬新な器を数多く生み出しました。緑色の釉薬をかけた「青織部」、黒を基調とした「黒織部」、歪みを極めた「沓形茶碗」など、いずれも当時の感覚からすれば衝撃的なまでに前衛的。シンメトリー(左右対称)を崩し、わざと造形をずらすことで生まれる“違和感”を「美」と捉える視点こそ、織部好みの真骨頂といえます。

3-2. 茶碗を一度割って継ぐ!? 極端なまでの「へうげもの」精神

伝来する茶碗のなかには、織部が“茶碗を十文字に割ったあと再接着した”という逸話を伴う「大井戸茶碗 銘 須弥・別銘 十文字」などがあります。器を壊すこと自体は割高(わりたか)や金継ぎの美意識にも繋がりますが、わざと断ち切って縮めるという行為は並大抵ではありません。
こうした破格の発想は、後世「へうげもの」(ひょうげもの=ひょうきんもの、奇抜な人)と呼ばれる所以になりました。千利休が完成させた侘び寂びや自然の不完全さとは異なり、**意図的に「崩す」「壊す」**ことで生まれる動的な美を追求するのが織部の最大の特色といえます。

3-3. 茶室や庭における“動的な美”――多窓の茶室、幾何学的構成

織部は器だけでなく、茶室や作庭にも独自の美意識を注入しました。たとえば、13窓を設けて採光を増やす茶室や、反りのない石橋を大胆に配する庭園など、それまでの自然地形に溶け込ませる“侘びの庭”とは対照的な発想があらわれます。
藪内家の「燕庵(えんなん)」や、「八窓庵(はっそうあん)」など、多窓形式の茶室は織部好みを象徴する例として知られます。暗く静謐な空間を好んだ利休や小堀遠州のスタイルとは異なり、採光を増やして動きのある演出を楽しむ――これこそ、織部が茶室に導入した新しい風でした。


4. 古田織部流の茶道――“武家の茶”としての様式と精神

4-1. 公的・儀礼的な茶――狭い草庵から広い書院空間へ

千利休や武野紹鴎らが育んだ“私的な侘び茶”は、小さな草庵で少人数の濃密な時間を大事にするものでした。対して古田織部は、大名や幕府の茶堂として、より多くの客を迎えられる広い書院風の茶室を重視し“公の茶”“武家の儀礼”としての茶会を確立します。
三畳未満の極小茶室ではなく、四畳半以上の空間で行う点前や道具配置が「織部流」の大きな特徴。公的行事としての格式を重んじつつ、必要とあれば「動き」「華やかさ」を加える美意識が見られます。

4-2. 「同じ茶碗を回さない」清潔重視の作法と道具扱い

織部流では、濃茶であれ薄茶であれ、「一つの茶碗を回し飲みしない」という独自の流儀が有名です。これは武家社会での公儀的な観点からの“清潔”や“礼節”を強調したためと解釈されます。さらに、道具を畳に直接置かず、盆に載せて運ぶ、点前の前に手をぬぐいで清める、下拭きの帛紗と道具拭きの帛紗を区別する、など細かな所作が存在します。千利休が育んだ質実剛健な“わび”の対局で、清新な美しさと品格ある礼式を大事にする――それが織部流のモットーでした。

4-3. 全国の大名・公家・寺社を巻き込んだ一大ブーム

古田織部は豊臣秀吉の茶頭としてだけでなく、徳川秀忠の指南役にも就任し、さらに伊達政宗や細川忠興、上田宗箇、金森可重など、当時の有力大名の多くが織部から茶を学びました。公家の近衛家や後陽成天皇、また京都の名だたる寺院の僧侶までもが織部の茶に傾倒。破格の造形を生み出す作陶集団を美濃で組織し、茶碗や茶器のみならず、作庭や建築にも携わる……文字通り「数寄の頂点」に達したのが、慶長の初め頃の織部だったのです。


5. 波乱の最期――大坂の陣と内通疑惑

5-1. 豊臣への“内通”は本当にあったのか?

1614年(慶長19年)の大坂冬の陣、翌1615年の夏の陣において、豊臣秀頼と通じた“放火計画”があったとする嫌疑で逮捕されたのが、織部の家臣たちでした。彼らは拷問にかけられるも沈黙を保ったとされますが、別ルートから出てきた証拠が“動かぬもの”とされ、最終的に織部自身も豊臣方との通謀を疑われました。
実際、織部が豊臣家への恩義を感じていた可能性は大いにあります。また、和平派として徳川と豊臣の両者をまとめようと動いていたともいわれ、その動きがかえって家康の疑いを招いたという研究もあります。いずれにせよ、決定的な裏切りの証拠があったかどうかは不透明です。

5-2. なぜ弁明しなかったのか――切腹に至るまで

大坂城落城後、織部は伏見の自邸にて「内通の疑い」をかけられ、弁明を許されないまま6月11日に切腹を命じられました。享年73。息子や縁者・家老ら多くも連座し、古田家は断絶。彼は一言の釈明も残さなかったと伝わります。これは、実際に計画に関与していたのか、あるいは潔く運命を受け入れたのか、資料からは明確になっていません。けれども千利休が秀吉に屈服せず死を受けたように、織部もまた真意を口にせず闇の中へと消えたのです。

5-3. 遺された家臣・子息たちの殉難、断絶する古田家

江戸初期、幕藩体制が整う中で「逆心の茶人」を生かしておく余地はなかったのでしょう。織部の子息4人が自害・斬首され、家臣も多数が処刑されるなど、古田家はほぼ壊滅状態に追い込まれました。
しかし、娘や女系子孫、または傍系(豊後岡藩・中川家に仕えていた古田重続の系統など)は途絶えず、後世まで“織部の血”を繋げていきます。


6. その後の“織部の心”――残された織部流・織部焼の現在

6-1. 後世の評価――江戸期に封印され、明治以降に再評価

古田織部が粛清されたこともあり、江戸幕府下では織部の名は長らくタブー視されがちでした。千利休が神格化される裏で、織部の大胆な破調は“天下への謀反人”の遺産として公には称揚されなかったのです。しかし幕末から明治にかけて封建体制が崩れると、北大路魯山人や川喜田半泥子などの陶芸家が、「織部焼」に着想を得て新たな作品を生み出し、織部の造形思想が再発見されていきます。昭和中期には、研究者や焼物ファンの間で「日本のアヴァンギャルドは織部から始まった」との声が高まりました。

6-2. 千葉・京都などに伝わる織部流茶道、無形文化財にも

一方、茶道の側面では、古田織部の流儀を継ぐ「織部流」が福岡藩や長府藩など武家社会を中心に受け継がれていきました。江戸後期から明治期にかけて東京や京都、千葉へと伝わり、現在も式正織部流扶桑織部流など複数の織部流が活動しています。
千葉県市川市に伝わった「茶道式正織部流」は1955年(昭和30年)に千葉県指定無形文化財となり、武家茶道としての織部の精神を今に伝えています。

6-3. 現代に息づく織部焼――歪みと大胆さが生む新たな創作

陶芸界では、「自然に見える歪み」だけでなく、「意図的に崩した形」に美を見いだす考えが、織部の発想を大きく取り入れてきました。海外からも「ジャパニーズ・アブストラクトアート」の一種として評価され、今なお現代の陶芸家たちが織部焼に挑戦を続けています。加藤唐九郎は「利休は自然から美を見いだしたが、作り出したわけではない。織部こそが美を“創り出した”のだ」と評したほど。その言葉どおり、歪みや奇抜さを最大の魅力に変えた彼の構想力は、時代や国境を越えて現代にも影響を与えているのです。


まとめ――“人とは違うことをせよ”が生んだ自由闊達な美学

千利休の“わび”を根底に持ちながら、一方で「あえて壊す・崩す・曲げる」という発想を徹底した古田織部。その茶碗には大胆な歪みや幾何学的文様が溢れ、茶室や庭にも独特の躍動感が宿りました。武家茶道という公的・儀礼的な枠組みを与えられても、なお「人と違うことをせよ」という師の言葉を信じて疑わず、己の芸術性を全うする――そんな“へうげもの”ぶりこそが、織部の魅力にほかなりません。しかし、そのあまりの自由さが、最終的には政治の中枢から危険視されてしまったのかもしれません。大坂の陣で疑いをかけられ、切腹へと追い込まれた悲劇の結末は、茶の湯史に暗い影を落としました。それでもなお、織部流や織部焼として受け継がれた思想は、他にはない冒険心に満ちた美的価値を我々に提示し続けています。「伝統」という言葉に安住せず、挑発と破調をもって新しい美を切り拓く――古田織部の美学は“一度完成したはずの世界”を再構築しうる大胆さ、意表を突く創造力の尊さを私たちに教えてくれるのではないでしょうか。いつの世も“余所とは違う面白さ”を生み出すエネルギーの源泉こそ、織部が遺した本質なのです。

ブログに戻る