芸術生成論26「小堀遠州の美学」
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小堀遠州の美学
“綺麗さび”が切り拓いた新しい茶と芸術のかたち
日本の伝統文化を語るうえで欠かせない存在のひとりが、小堀遠州(こぼり えんしゅう)です。大名として政務を担いながら、茶の湯・建築・庭園・工芸・書画など、多彩な才能を発揮し、日本の美の価値観を大きく変えていきました。千利休や古田織部が築き上げてきた茶の流れを汲みつつ、そこに王朝文化のエッセンスを融合させた「綺麗さび」の美意識を確立し、武家社会から公家、さらには町人層や海外に至るまで多大な影響を与えたのです。本稿では、小堀遠州が生きた時代背景や茶の湯の特徴、建築・造園を中心とした作事奉行としての活躍、さらには遠州好みの道具や芸術性についても詳しく見ていきながら、「小堀遠州の美学」が果たしてきた役割と、その普遍的な魅力に迫ります。
1. 小堀遠州という人物――出自・生涯・政治的役割
1-1. 出自と幼少期
小堀遠州の本名は小堀政一(こぼり まさかず)。「遠州」の呼び名は官位である「遠江守(とうとうみのかみ)」に由来します。彼は安土桃山時代の末期から江戸時代初期にかけて生き、武家官僚としての務めを果たしながら、茶人・建築家・作庭家・書家など多方面で能力を発揮しました。
誕生: 天正7年(1579年)に近江国(現・滋賀県)で生まれる
父: 小堀正次(こぼり まさつぐ)
豊臣秀長、そしてのちに徳川家康に仕え、備中松山城(岡山県高梁市)の城主となった武将。幼名は作助といい、茶の湯との出会いは父に従って移り住んだ大和郡山(奈良県)でのことでした。豊臣秀長が拠点とした大和郡山城では、千利休をはじめ名だたる茶人が集い、若き政一がそこで茶の湯の魅力を肌で感じたことが、後年の大成につながったといわれています。
1-2. 武家としての道と“遠江守”拝命
豊臣秀吉の晩年期、政一は古田織部から茶を学びつつ、伏見に居を構えました。関ヶ原の戦い(1600年)では父・正次とともに東軍として徳川家康に仕えたことで、功績が認められます。慶長9年(1604年)に父が死去すると備中松山城を相続し、1万2,460石の領地を継ぐ大名となりました。
さらに慶長13年(1608年)、駿府城の修築奉行を務めた功績により従五位下・遠江守に叙任されます。これを機に「小堀遠州」という通称が広く知られるようになり、江戸幕府成立期の京都伏見を中心に政務・建築・造園などで大いに活躍していくことになります。
1-3. 伏見奉行・上方郡代として
遠州はその後も伏見奉行・近江国奉行・上方郡代などを兼任し、畿内一円を監督する幕府の要職を担いました。特に伏見奉行としては、京都伏見城の周辺整備や奉行所の建て替えなどを行い、政治的にも文化的にも重要な立場であったといえます。
晩年の遠州には、公金の流用疑惑がかけられたとも伝わりますが、周囲の重臣たち(酒井忠勝・井伊直孝・細川忠興など)の支援で追及を免れ、作庭や茶の湯に没頭しながら正保4年(1647年)に69歳で世を去りました。
2. 茶の湯と“小堀遠州流”――千利休から織部を経て“綺麗さび”へ
2-1. 茶の湯の流れ――利休から織部、そして遠州
日本の茶道史は、村田珠光や武野紹鴎によって基礎が築かれ、千利休によって侘び茶が大成されました。利休の没後は、その弟子である古田織部(ふるた おりべ)が、武家茶道としての斬新さ・前衛性を取り入れた「織部流」を生み出します。小堀遠州はこの織部のもとで学び、侘びの精神と武家らしい洗練された茶風を継承しつつ、自身の美意識をさらに深めていったのです。
2-2. “綺麗さび”とは何か
遠州が創出したとされる茶の湯のエッセンスが「綺麗さび」。侘び寂びの奥ゆかしさや静謐な雰囲気を受け継ぎながら、そこに「王朝文化の雅(みやび)や華やぎ」を加味した新しい感覚です。一言で言えば、
「静かな幽玄の中に、端正で洗練された美しさを際立たせる」
というのが綺麗さびの方向性といえます。利休時代の“わざと不完全を良しとする”侘びにはない、美しく整えられたもの、華やかでありながら品格を失わないもの、という価値観を追求したと考えられます。
2-3. 遠州流茶道の成立と幕府宗匠への道
遠州が深めた茶の湯は「遠州流」と呼ばれるようになり、千利休の孫・千宗旦らが“侘茶”を強めていたのとは対照的に、武家や公家を中心に支持を集めました。江戸幕府三代将軍・徳川家光の茶の指南役にもなり、幕府内外での茶会を多数開催。生涯で400回近い茶会を主宰し、延べ2,000人もの大名・公家・町人など、多様な身分の人々を招いたとされます。
また、茶器の審美眼にも優れ、遠州が目利きして銘を付けた茶道具の数々は「中興名物」として名を連ね、遠州蔵帳に記録されました。こうした茶器の選定や、国焼(くにやき)と呼ばれる日本各地の焼物(高取焼・志戸呂焼・丹波焼など)への指導・デザインは、遠州流が茶器の世界でも大きな影響力を持ったことを示しています。
3. 作事奉行としての功績――建築・造園での才能
3-1. 幕府・宮中の建築事業と遠州の関わり
遠州が茶の湯だけでなく、建築や造園の分野でも高く評価されたのは、駿府城の修築奉行に始まり、名古屋城天守や後陽成院御所など重要な建築・修築に深く関わったからです。将軍や朝廷との信頼関係を背景に、以下のようなプロジェクトを指揮・参画しています。
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名古屋城天守
徳川家康の意向で豪壮な天守が建築された際、遠州は意匠面や施工面で奉行として監督したとされる。 -
後陽成院御所造営
朝廷の御所造営は公儀の重大事業。遠州は幕府と宮中をつなぐ要職として、宮中造営に参加した。 -
品川東海寺(徳川家菩提寺)
将軍家の菩提寺に加え別荘機能をもつ、格式の高い寺院建築に携わる。 -
大坂城内御茶屋・水口御殿・伊庭御殿・永原御殿など
将軍上洛時の休泊所として建てられた豪華な御殿群を設計・監督。
3-2. 大名庭園・寺院庭園への影響
作庭家としての小堀遠州は、千利休や古田織部の影響を受けながら、自身の武家茶道の美意識を取り入れたスタイルを確立しました。中でも有名なのが、京都の南禅寺塔頭・金地院の庭(鶴亀庭)や、大徳寺塔頭・孤篷庵(こほうあん)の庭園です。いずれも「遠州好みの庭」と呼ばれ、以下の特色が見られます。
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直線や幾何学的要素の導入
従来の自然な曲線のみの庭園に対し、切石や方形の敷石など、幾何学的に配置された石材を使い、空間にメリハリを作る。 -
石橋や刈り込みの活用
大胆な石橋(無反りの橋など)や、低木を綺麗に刈り込んだ意匠を加えることで、すっきりとした印象を与える。 -
「きれいさび」の演出
草木と石のコントラスト、芝生の使用などによる明るい画面づくりが、遠州の雅やかさを体現する。
また、桂離宮や仙洞御所、二条城などの庭園改修にも関わったとされ、幕府や皇室の大規模工事に参画することで、遠州好みの造園術が広範に波及しました。
3-3. 洞水門・水琴窟の発明
遠州には、サイフォンの原理を利用した手水鉢の工夫や、水音が反響して琴のように響く「水琴窟(すいきんくつ)」の原型「洞水門(どうすいもん)」を考案した逸話があります。わずか18歳の頃、伏見の自邸に洞水門を設置し、師・古田織部を驚嘆させたという伝承は有名です。
こうした革新的なアイデアは、単に古典を踏襲するだけでなく、新しい技術や知識を取り入れて独創的な美と実用性を結びつける遠州の姿勢をよく表しています。
4. 小堀遠州の美意識――茶器・華道・工芸への広がり
4-1. 遠州好みと“中興名物”
遠州は、千利休が確立した「名物茶道具」の評価体系をさらに発展させました。利休後の時代、秘蔵されていた古物の名品を入手するのが難しくなっていたため、新たな茶器を見つけ出し、それらに独自の銘を与えて「中興名物」として認知させていったのです。
ここには、遠州が培った和歌や古典文学への素養が大いに活かされました。銘には『伊勢物語』や『源氏物語』、王朝風の歌枕などを多用し、「本歌」から派生する類似のデザインに一括りの銘を与えるといった、整理・分類の発想がみられます。
■ 遠州切形の茶器
高取焼・志戸呂焼などで「面取り」や「瓢箪型」「耳付き」などをデザインし、焼き方や釉薬にも指示を与えたとされます。武家の端正さと王朝の優雅さが交錯するそのフォルムは、侘び寂びとは異なる格調高さを感じさせ“きれいさび”を具体的に示したものといえます。
4-2. 華道への影響――江戸後期に広がる“遠州流の花”
遠州の美意識は茶だけでなく、花にも波及しました。華道の世界では、花枝を大胆に曲げる「曲生け」を積極的に取り入れた流儀が多数生まれ、その基盤には“遠州好み”の花の感性があるといわれます。
江戸時代後期には正風流、日本橋流、浅草流といった華道流派が成立し、さらに昭和初期にかけて「遠州」の名を冠する流派が続々と誕生。武家文化の端正さと、王朝風の品格を花にも反映させる点が共通の特徴となりました。
4-3. 七宝細工を用いた建築装飾
遠州は、茶室や書院の空間演出において、これまであまり用いられなかった七宝細工を戸袋や襖の引き手、釘隠しなどに採用したことでも注目されます。華美な装飾を嫌った千利休・古田織部の路線と比べると、より明るく装飾的な好みを示しており、これも遠州ならではの芸術性といえるでしょう。
桂離宮や曼殊院、修学院離宮などで見られる七宝の装飾引手は、遠州の指導の下で名工・嘉長(かちょう)が製作したという伝承もあり、こうした工芸の広がりは遠州が築いた“きれいさび”のもう一つの側面を物語っています。
5. 国際性と文学的素養――小堀遠州が目指した広い視野
5-1. 伏見奉行として海外事情を入手
江戸初期の幕藩体制下では、長崎を経由した海外との貿易や交流が厳しく制限されつつも、ある程度続いていました。伏見奉行の地位にあった遠州は、ときに海外の情報を得やすい立場にもあったとされ、オランダから輸入される陶磁器や文物にも強い関心を抱き、自らデザインを送って焼かせるといった「注文陶器」を作らせた例も残っています。
たとえば、和蘭陀半筒茶碗のように、ヨーロッパで焼かれた器を「茶碗」として取り込み、その胴部に七宝文様をほどこすなど、遠州が手がけたであろうと推定される品もいくつか知られます。
5-2. 文学・書への深い造詣
一方で、遠州は藤原定家に憧れ、和歌や書を熱心に学びました。書のスタイルは「定家様」と称され、彼自身が床(とこ)に掛ける掛け物を自書で揮毫するほどの腕前。
「定家卿小倉色紙に倣う」といった自作も残されており、和歌を散らし書きにした優美な筆致は王朝文化の血脈を感じさせます。これらの作品は、茶会の床飾りなどに用いられ、茶の湯と文学の融合を象徴する存在となりました。
5-3. 和歌や物語を銘に落とし込むセンス
茶道具の銘付けには、しばしば和歌の名句や古典文学が用いられました。遠州は伊勢物語や源氏物語、藤原定家の歌集などに精通しており、そこから取った雅な歌枕を銘にすることで、茶器を単なる器物から「文学的情趣をまとった芸術品」へと昇華させたのです。
たとえば、高取茶入「下面(しもつら)」の銘や、堅手茶碗への歌の一節など、随所に遠州の洗練されたネーミングセンスと文学素養が感じられます。
6. 遠州が遺した空間と道具――代表的な例をめぐって
ここでは、遠州の代表的な建造物・庭・茶器をいくつか挙げ、その美学をより立体的に捉えてみましょう。
6-1. 孤篷庵(こほうあん)――“忘筌の間”と庭園
- 所在地: 京都市北区大徳寺町、大徳寺の塔頭のひとつ
- 創建: 遠州が慶長17年(1612年)頃に大徳寺龍光院内に建て、のち寛永20年(1643年)に現在地へ移転
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見どころ:
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忘筌(ぼうせん)の間
12畳の広間で、西庭に面する板縁の先に明り障子を設置し、その下部を開放した「舟入りの間」を形成する独特の意匠。 -
庭園の構成
中敷居で区切られた空間を通じて、室内と外の景色とが絶妙に交わり、幽玄と明朗さが並立する。 -
遠州の書跡や狩野派の障壁画
襖や壁に描かれた墨絵などが、室内に王朝的な格調をもたらしている。
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忘筌(ぼうせん)の間
「筌(うけ)」とは魚を捕る仕掛けのことで、魚を得れば筌を忘れる――つまり、目的が達せられれば手段に固執しない無心の境地を寓意する禅的な言葉です。遠州の茶室造りにおける哲学が凝縮された空間といえます。
6-2. 南禅寺金地院(こんちいん)
- 所在地: 京都市左京区南禅寺福地町
- 方丈南庭(鶴亀庭): 遠州が作庭したと伝わる名園で、真砂(まさご)の上に鶴島と亀島を象り、切石を飛石として幾何学的に並べる。この直線的でモダンな構図が、いわゆる“遠州好み”を示す代表例です。
- 茶室や書院: 金地院には東照宮や御祈祷殿などがあり、遠州が公儀から信頼を得て深く関与した寺院であると推測されます。
6-3. 遠州好みの茶器
堅手 十文字高台 茶碗
李朝前期の朝鮮陶で、「井戸茶碗」の系譜にあるものの、硬質な土と落ち着いた釉調が特徴。遠州家に伝来し、高台を十文字に削り取った珍しい作行。
宝珠 香合
遠州が還暦を迎えた寛永15年(1638年)に、出入りの塗師へ注文したと伝わる香合。赤漆と宝珠形の造形が華やぎと上品さを兼ね備え、まさに“綺麗さび”の象徴。
朱 糸目瓢箪 茶器
「糸目」と呼ばれる細かな筋状の文様を朱の漆で描き、胴がひょうたん形に膨らんだユニークなフォルム。武家の威厳と遊び心が融合し、上部の口径に茶杓を置く工夫など機能面でも面白い。
7. 「小堀遠州の美学」とは――その本質と後世への影響
7-1. “綺麗さび”が拓いた可能性
千利休の侘び寂びを継承しつつ、より明るく洗練された美感覚を打ち出した遠州流の茶は、江戸期の武家や公家、さらには文化人などに大きな支持を得ました。侘びの「欠落を味わう」静かさに加えて、「豊かで品格ある」側面を融合させたことで、かえって日本文化の多様性が増したとも言えます。
- 質素と豪華、静寂と華麗といった対照的な価値観を両立し、新たな調和点を生み出した。
- 「綺麗さび」の精神は、やがて琳派などの装飾芸術とも呼応し、桃山・江戸前期の華やかで洗練された芸術文化を支える一翼となる。
7-2. 政治と美術の架け橋
遠州は幕府の要職(伏見奉行・上方郡代など)を歴任し、皇室や将軍の指令を受けて造営や作庭を行うという、極めて公的な立場の芸術家でした。古田織部が失脚し、茶人への統制が強まった時代背景の中、遠州は権力と芸術を結ぶかじ取り役をうまく務め上げたのです。
- 千利休・古田織部が「高い精神性や前衛性」を追求したのに対し、遠州は政治権力の意向を斟酌しつつ、それでも芸術性を犠牲にしない落としどころを見いだした。
- その柔軟かつ独創的な姿勢が「きれいさび」の誕生を促し、結果的に江戸初期の文化隆盛期に大きく寄与した。
7-3. 後世への継承と評価
遠州が死去したあとの江戸中期から後期にかけて、千家流(表千家・裏千家・武者小路千家)をはじめとする茶の湯が広まり、侘茶の方向性が強まる中で、遠州流は武家社会や公家文化との結びつきを保ち続けました。明治維新後も、多くの華道・茶道の流派に影響を及ぼし、建築・造園の世界では「遠州好み」を称する庭園が全国に散在しています。
近代に至り、ドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880–1938年)が日本に亡命中、桂離宮などを絶賛した際にも、遠州の建築・庭園美が「日本が世界に誇る芸術の精華の一端」として再評価されました。
まとめ――小堀遠州の遺産と現代への示唆
小堀遠州は、豊臣から徳川へと激変する時代を生き抜き、武家の地位を保ちつつ、茶の湯や建築・造園・工芸にわたる広範な分野で独自の足跡を残しました。彼が打ち立てた「綺麗さび」という美学は、侘び寂びに囚われることなく、しかしその精神を尊重しながら、新たな光をもたらすものでした。
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茶の湯
- 幽玄と優美を融合した遠州流。
- 幅広い社交を通じて多くの人々を茶会へ迎え入れ、茶が持つコミュニケーションの力を最大限に発揮。
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作事奉行としての業績
- 幕府・朝廷の大型プロジェクトを手がけ、城郭や御殿、寺社や御所を彩り、後世に残る名庭や建築を数多く創出。
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芸術性と政治性の調和
- 権力や公家の趣向を尊重しながらも、茶と美術の独立性・品格を保つバランス感覚。
- 自由な発想で海外の意匠や技術を取り込み、ワインやオランダ陶器への興味など国際的視野を示した。
このように、多面的な才能を発揮しながら、人々が「美」を感じる心を、より多元的かつ開放的に広げたのが小堀遠州の偉業です。現代においても、彼が残した建築や庭園、茶室や茶器を通して、その繊細でいて大胆な芸術性を垣間見ることができます。日本文化が世界に誇るべき一つの結晶として、遠州の仕事は今もなお色褪せません。
「茶は侘びなれど華もまたよし。
侘びの底にこそ生まれ出づる
きれいの花にこそ吾が心映え。」
もしも遠州の言葉が残っていたなら、そんな一句が記されていたかもしれません。
千利休によって開かれ、古田織部が斬新さを注入した茶道。それらを受け止めつつ自らの芸術観を加え、「綺麗さび」という世界を確立した小堀遠州。その美学は、茶室や庭園のみならず、私たちの暮らしの中のデザインやおもてなしの心に、いまも確かな影響を与え続けているのです。