現代アートとしての茶碗
Share
(完成品) 高台が作りにくいため、底を隠しやすい瀬戸黒に挑戦する。
(完成前) 3Dプリンター特有の模様が美しい。
(完成品) 釉薬がぷっくりとしたぐい飲みが面白い。
(作成中)紐作りのように粘土を積み上げていく。
巨大な3Dプリンターが数時間で住宅を“吐き出す映像をニュースで見たことがある。コンクリートを層状に積み上げるだけで、外壁から配管の空隙まで一体成形してしまう光景は、この時代の土木革命だろう。しかし、同じ「プリンター」という装置を用いても、茶碗一客を思いどおりに仕上げるのは、その何倍も神経を使う繊細な作業だ。粘土は生き物だ。
ノズルから押し出された瞬間に乾きはじめ、自重でたわみ、層と層の間にわずかな空気を抱え込む。プリント直後は形が整っているように見えても、乾燥と素焼き、さらに本焼きの高温に耐えるうち、歪みや亀裂が容赦なく現れる。轆轤であれ手びねりであれ、人の指先がその場で粘土を感じ取り、わずかな水分や圧力を調整してきた工程を、ソフトウェアとセンサーで置き換えるのは簡単ではない。3Dプリンターで茶碗をつくってみる誘惑に従って良い方法はないかと考えてみた。もともとCGの世界で空間を設計するのには興味があった。Houdiniという3DCGソフトが最適であると教えてもらった。「パラメトリックに生成したフォルムがそのまま手の中に収まる」体験を味わえる。
まず粘土押出機(ペーストエクストルーダ)付きのプリンターを導入し、Houdiniで茶碗の曲線を数式化する。高台から胴へ、胴から口縁へ、半径と高さをスプラインで滑らかにつなぎ、さらに胴外面にゆるやかな起伏を付与してみる。茶の湯の文脈で言えば、いわゆる“楽茶碗”のように掌に沈む柔らかなボリューム感を保ちつつ、どこかしらデジタル特有のリズムを残す意図である。しかしレンダリング画面では美しかった曲面が、実際にプリントすると微妙に段付きになる。層の高さを1mm下げ、ノズル温度と粘土の含水率を調整し、フィラメントに圧をかけ過ぎないようフィーダーギアを緩める。あちらを立てればこちらが凹み、こちらを直せばあちらが糸を引く。結局、三十分のプリントのために、半日プリンターとにらめっこする羽目になった。陶芸が「土と炎と水と空気を相手取る四大要素の芸術」と呼ばれる所以を、テクノロジー経由であらためて思い知る。
それでも出来上がった試作茶碗を手に取った瞬間、発見があった。視覚的にはボリュームがあるのに、持ち上げると驚くほど軽い。3Dプリンターは中空構造を容易に組み込めるので、内部を蜂の巣状にし、外壁を3ミリに抑えた。轆轤成形の薄造りとも、石膏型で抜いた磁器とも異なる軽さだ。茶道具の世界では「見た目より軽く感じる茶碗は佳品」とよく言われるが、プリンター製はまさに見た目どおり軽い。人によっては拍子抜けするかもしれないが、この“軽さの違和感”こそ現代アートとしてのメッセージになる。手に収め、口縁を唇に当てると、プリント層がわずかに舌に触れる。轆轤目の味わいを人工的に再現したとも言えるし、単に積層痕が残っただけとも言える。どちらに解釈を振ってもいいのが現代美術の面白さだ。私はあえて釉掛けを薄めにとどめ、積層の名残を意図的に残した。完璧に磨き上げて層痕を消すこともできるが、その瞬間、デジタル固有の「積み重ねの時間」が消えてしまう気がしたからである。
茶の湯とは不思議な文化だ。鎌倉末期に抹茶が禅寺に伝わって以来、「粉末の茶に湯を注ぎ、茶筅で泡立てて飲む」という行為はほとんど変わらない。それなのに、茶室建築、花、香、菓子、掛物、そして茶碗にいたるまで、無数の分野が総合され、しかも時代ごとに刷新され続け、日本文化の頂点とまで称される。技術の進歩が加速度的に日常を変える現代にあって、茶の湯はあえて速度を落とし、動作を最小限に切り詰めることで、時間の質を反転させる。そこに3Dプリンターという“加速装置”を持ち込むと、文化の時間と技術の時間が交錯し、不思議な層が生まれるのだ。もっとも、どんなに面白いフォルムを生成しても、湯を注ぎ抹茶を点ててみないことには茶碗としての評価は決まらない。私は自作プリント茶碗で朝茶を試してみた。湯を注ぐと、薄い外壁ゆえに熱がすぐ指に伝わり、軽さと相まって手の中でおぼつかない。だが茶筅を振るううちに、指先が徐々に器の熱に馴染み、重心の位置がつかめてくる。口縁は丸みを保ちながらもエッジが立ち、唇への当たりが滑らかだ。思いがけず機能面での欠点は少なく、むしろ「異物感を許容する」ことで茶の湯の自由度を感じた。伝統的な楽茶碗が“手でこねる”という工程を可視化したように、プリント茶碗は“デジタル積層”を可視化する。
こうなると次の欲が出る。茶碗ができたのだから、茶室も3Dプリンターで建ててみたい。すでに海外では曲面壁の小住宅やパビリオンをコンクリートプリントで造る事例が増えている。もし躙口を備えた二畳台目の小間を、プリンターで一体成形できたらどうだろう。躙口の低さは武家も町人も頭を下げて入る平等の象徴だが、その開口部をパラメトリックに変形させ、光の入り方を制御し、壁厚に断熱材をサンドイッチすることもできる。炉壇の位置や天井の高さ、にじり口の斜め格子まで数式化し、プリンターが一晩で“未来の侘び茶室”を吐き出す。もちろん、そこには批判も付きまとう。わずかな歪みや凹み、手跡のゆらぎに宿る「侘び」を、冷徹な機械が再現できるのか。型にこそ個性が滲むという考え方もあるが、あらゆる曲率が数値化されると、個性はむしろ隠れてしまうのではないか。だが私は、侘び寂びを「不完全さ」ではなく「時間と物質の不可避な変化」と捉え直せば、プリンターであっても侘びを孕むと信じている。積層痕が光を受けて微妙に陰影を変え、焼成で生じる釉の縮れが偶然の景色を描く。デジタルで設計しても、焼き物は最後に炎というカオスに委ねられる。そこに人為を超えた変化が潜み、侘びの芽が宿るのだ。
そして何より、茶の湯の本質は「いま、ここで、人が向き合う」ことにある。3Dプリンターで作った茶碗でも、百年の手跡が刻まれた唐津でも、茶室で相手に向かい合い、茶を点て、器を回し、挨拶を交わすという一連の所作は同じだ。その所作を通じて器は初めて命を帯び、素材や技法の差異が意味を獲得する。試作のプリント茶碗を棚に戻し、あらためて眺める。軽量中空構造ゆえに壁面を指で軽く叩くと、陶器というよりシェル構造の楽器のような乾いた音が返ってくる。そこに抹茶の深い緑を落とし、白い泡が立つと、人工的な積層パターンと自然の液体が響き合い、意外な調和が生まれる。テクノロジーの介在を隠さず、むしろ前景化することで、茶の湯はあらためて「変化を抱きとめる器」として息を吹き返す。
陶芸とは繊細な手作業であるという常識を、3Dプリンターは揺さぶるが、完全に置き換えることはできない。ノズルの前には、粘土の乾きを読み取り、焼成後の収縮を計算し、最終的な手触りを想像する“身体的想像力”が不可欠だ。その想像力があるかぎり、プリンターも轆轤も単なる道具にすぎず、主役はあくまで人間である。テクノロジーが進むほど、手の記憶や身体感覚の価値が際立つのは皮肉だが、その二重性こそが現代アートとしての茶碗を面白くする。
次の目標は、プリント茶室での初点前だ。コンクリートの層がつくる年輪のような壁面を背景に、プリント茶碗を取り合わせ、あえて炭は手割りの黒炭を使う。デジタルとアナログがせめぎ合う場にこそ、茶の湯の未来が立ち上がるに違いない。