芸術生成論9「抹茶の飲み方」

茶碗(抹茶碗)には「正面(しょうめん)」と呼ばれる、作者が最も美しいと考え意匠を集中させた部分があります。茶席では、この正面を意識して扱うことで、器の美を尊重し、茶を点ててくださった亭主(ていしゅ)や器を作った陶芸家への敬意を表します。また、客として茶をいただく際の一連の所作は、互いへの礼儀と感謝の心を形にしたものであり、茶道の精神である「和敬清寂(わけいせいじゃく)」の実践でもあります。

1. 茶碗を受け取る
お点前をいただく際、まずは亭主や先に茶をいただいた方々への感謝の気持ちを示します。一般的には、次のような流れで行われます。

感謝の気持ちを込めて:招かれた客は、運ばれてきた茶碗を右手で茶碗の右側を軽く支え、左手の掌に茶碗をのせるようにして両手で包み込みます。茶碗を軽く持ち上げるような仕草は、点前を行った亭主への敬意と感謝を表すものです。

丁寧な言葉遣い:茶碗を受け取る前、あるいは受け取った直後に「お点前頂戴いたします」と軽く一礼することで、より丁寧な印象となります。この一言は、亭主が点ててくれた抹茶をありがたく頂くという謙虚な気持ちを表したものです。

2. 茶碗を回す
茶碗を受け取った後は、茶碗の正面を自分に向けたまま口をつけることを避けるために、茶碗を回す所作を行います。

正面を避けるための所作:一般的には、茶碗を時計回りに約90度ずつ2回(合計180度)回してから口をつけます。これによって、正面を自分の唇から外し、器への敬意を表します。正面を避けることは、茶碗の美点を損なわず、あくまで茶碗を「眺めるべき対象」として尊重する姿勢でもあります。

飲み方:抹茶は通常、3~4口ほどに分けて静かにいただくのが一般的です。一気に飲み干さず、ゆったりと味わうことで、抹茶の旨味や香り、点前を受けた感謝の念がより深まります。

3. 最後のひと口と「吸い切り」
抹茶を飲み終える際には、「吸い切り」という所作が行われる場合があります。

「吸い切り」とは:最後のひと口を飲む際に、ごく控えめな音を立てて「ズッ」と吸い切ることを指します。これは「最後までおいしくいただきました」という意味が込められた礼儀作法であり、点前を行った亭主への感謝や満足の表現とされています。ただし、流派や茶席の雰囲気によっては必ずしも行わなくても構いません。

4. 茶碗を拭く(懐紙の使い方)
茶を飲み終えた後は、飲み口を清めるための所作を行います。

懐紙(かいし)を用いた丁寧な拭い方:飲み終えた茶碗は、右手の人差し指と親指で、飲み口を軽く拭います。この際、懐紙を用いて指先を清めることも多く、茶碗に直接懐紙を当てることはあまりしません。懐紙は、お点前中の菓子を受けたり、口元をぬぐったり、器を扱う際に清潔さを保つために用いる多目的な紙であり、茶道において非常に重要な道具の一つです。

5. 茶碗の正面を戻す
飲み終え、拭き終えた茶碗は、もとの正面が客前に来るように戻します。

正面の復元:左手で茶碗を安定させ、今度は反時計回りに2回程度回して正面を元通りにします。これによって、茶碗は本来の美しい向きへと戻され、返却時に亭主がその美を再確認できます。

場に応じた柔軟な対応:フォーマルな茶会では正面をきちんと戻すことが求められますが、茶室以外のカジュアルなシーンや、和カフェといった場では、ここまで厳密に意識しなくても構わない場合もあります。それでも、基本的な所作を知っておくことで、より礼節にかなった振る舞いができ、相手や器に対する敬意を伝えることができます。


上記は一般的なマナーである。しかし、あまり格式張ってはいけない。

もしかすると、マナーという建前を披露しているにすぎないのかも知れない。少し逆説的だが、別の本意を論じてみたい。

飲み方の本意は何かといえば、まわし飲みをすることではないか。

礼儀や味は二の次なのだ。もし一人ではなく誰かといた場合、一つの器で、まわし飲みをしてみることに抹茶の飲み方の一番大事な要素が隠れていると思っている。このまわし飲みだが、専用の抹茶碗が無いとお思いの方もいるかも知れない。抹茶は手持ちのコーヒーカップでも平皿でも何であっても、漏らない器であれば良い。まずは形という要素を除いて、ただ誰かとまわし飲みを実践してみるということに挑戦したい。

抹茶のまわし飲みというのは不思議な作法である。ふだん一つの飲み物を一同で共有する習慣のない日本人にとって、見知らぬ人と同じ器に口を合わせるのには抵抗感がある。なぜ、まわし飲みをするのか、それを考える前に、なぜ抵抗感があるの考えてみよう。ことに日本人は口をつける器に潔癖だ。われわれは器を手で持つとき、なるべく縁に指をかけないようにする。碗や丼の内側に指をかけることはまことに不作法になってしまう。

われわれの唇を直接つけるもの、たとえば湯飲みなどはすべてを個人に所属している。かつてはどの家でも父親の茶碗、母親の茶碗というのが決まっていたはずである。職場でも、湯飲みだけは一人ずつ決まっているようだ。親子、兄弟といえども共にしない強い個人主義が貫かれるのが唇の領域である。もしそうならば、他人のふみ込んではならない唇の領域に強引にふみ込んだならば、どうなるのであろうか。最初の反応はもちろん、拒否である。しかし、一度それを受け入れてしまったら、互いにもはや他人ではなくなった、という状態になる。 逆にいえば、他人の関係ではなくなる儀式が唇の領域を共にすることであった。代表的なものは結婚式であろう。夫婦の契りを結ぶ三三九度の盃を新郎新婦で共にする。親類、縁者の見守るなかで、公然と同じ盃をかわすことに意味がある。こうした酒をまわし飲みする習俗は日本に限らず世界中に広くみられる。

同じ器から同じものをまわし飲む儀礼は洋の東西を問わず、かたい盟約を結び、一心同体の関係を結ぶために必須の儀礼であった。こういう儀礼を共同飲食という。同じ器で同じものを一緒に飲み食いする行いが、いかに人と人を強く結びつけるものか再説するまでもない。世界中どこにでも見いだせるこの習慣を、ことに唇のタブーの強い日本で抹茶のまわし飲みとり入れた茶会とは、まさに共同飲食の儀礼をもっとも高度に洗練させた文化だったといえるだろう。

まわし飲みという作法は江戸時代の茶書によると千利休が考案したとされる。濃茶の点法が複雑で、一服ずつたてていたのでは時間がかかり過ぎる。そこでまわし飲みで簡素化しようとした。一服ずつたてる作法を当時の言葉で各服点てといい、それに対してまわし飲みは吸い茶という。

吸い茶という言葉が茶会記に登場する最初は天正十四年(1586)である。このとき、すでに千利休の晩年であった。この言葉は頻繁に茶会記に見える。事実、利休の茶会でまわし飲みが好まれる傾向にある。2年後の天正十六年九月四日の茶会は、豊臣秀吉から調査の依頼を受けた禅僧古渓 宗陳である。古渓とは利休がもっとも信頼した禅僧である。その古渓が秀吉によって京都から追放されることになった。利休は大胆にもその古渓を秀吉のお膝元の聚楽第の利休屋敷に招いて送別の茶会を開いた。しかも、床の間の掛物は有名な生島虚堂と通称される虚堂智愚の墨跡である。この生島虚堂は利休所持の墨跡ではなく、主君秀吉所持の名物なのだ。たまたま秀吉から表具を修理するように命じられて利休が預かっているにすぎない。「上ニハ隠密ノ儀」、つまり秀吉には秘密で古渓送別の茶会に用いたというわけである。ことが露見すれば、どんな罪に問われるかわかったものではないが、 利休にはこうした豪胆なところがあったのだ。(秀吉にはばれずに、およそ500年後の私たちにばれてしまったのは面白い)

茶会の正客は古渓の先輩にあたる春屋宗園。次客に古渓、末客が三井寺の本覚坊であった。利休は茶を点てるに、正客の春屋には茶を茶杓に三すくい、湯を少なくして点てた。濃茶の点て方である。つぎに茶を五すくい入れて吸い茶にした、と茶会記に記されている。五すくいで二人は現代の感覚では、ちょっと少ないようにも思うが吸い茶とあれば間違いなくまわし飲みである。正客の春屋宗園には敬意を表して各服だてとし、次客以下はまわし飲みとしたわけである。こうした挿話からもうかがえるように、利休自身、まわし飲みを点前として確立していたことは事実だが、時間短縮の効果のためにまわし飲みをしたと解釈するのは誤りである。

 

 (拙い自作の樂茶碗で抹茶を飲むのも一入である)

 

まず第一に、本稿の主眼は抹茶をまわし飲みので時間節約をはかることではなく、一碗の茶を共にして盟約を結び、親しみを深めることにあった。このまわし飲みは利休の時代に一般化し、利休によって点前作法として確立されたことは確かである。すでに『松屋会記』の永禄六年(1563)の松永久秀の茶会をみると、一同はまわし飲みをしている。この例からみて、まわし飲みはむしろ武士や民俗的な酒の飲み方にはじまるものかと思われる。中世の民衆が村人どうしの掟を決めるときに、神に誓いその誓紙を焼いて、灰を水に溶いて一同がまわし飲むということがあった。一味同心である。酒の儀礼にも同様のことがいくらもある。つまり、中世の人びとの生活に根ざした一味神水の作法が、同じ中世人の生みだした茶の湯に取り入れられて、茶の作法として確立したのであろう。そのとき、毒味なしの茶に不安を感じる戦国武士にとって、主客ともども一碗の茶をまわし飲むことは、いっそう具合のよいことであっただろう。

利休によって確立された茶の点前作法はあまりにも戦国的であった。しかし、現代においては唇による抵抗をはらった上で、抹茶のまわし飲みを正しい実践としたいのだ。

抹茶をまわし飲みすることは、時間の短縮よりも他人との関係の延長にあるように思う。

  

(ARTS&SCIENCE Aoyamaで衝動買いしたコップである。小さなコップでまわし飲みをしてみるのも一興である)

ブログに戻る