芸術生成論4『長谷川等伯による利休』

二枚の利休の肖像画がある。いずれも長谷川等伯の作であると言われる。

 

春屋宗園賛 不審庵

利体没後四年を経て、文禄四年に描かれた遺像である。宗匠頭巾に黒衣を着し、自層を手に取って上畳に増座する。鋭い眼差し、固く結ばれた口元が、信長、秀吉に仕え動乱の世を渡ってきた胆力と、意志の強さを感じさせる。春屋宗園(大徳寺)の賛から、楽家初代の田中宗慶の依頼により制作されたことがわかる。箱書は利休の孫宗旦が書いており、「隔蓂記」には慶安元年に宗旦がこれを茶会に用いられたと記される。 画家の落款はないが、画風から長谷川等伯の作と考えられている。この前年に宗園の頂相(重要文化財京都・三玄院蔵)を描いており、またこれに先立つ天正十七年には、利休寄進の大徳寺山門上層壁画および三玄院襖絵を制作している。像主・賛者・画家の親交を示す史料としても貴重で、江戸期の模本も複数伝わる。中でも円山応挙が写し、西本願寺に伝来した利休像は、藪内家六代比老斎の賛が伴う興味深い一本といえる。

 

古渓宗陳賛 正木美術館

天正十一年八月に記された利休参禅の師古渓宗陳(大徳寺)の賛 により、六十二歳の寿像であることがわかる。 またこの賛に「利休宗易禅人幻容」との題があることから、天正十三年の禁中茶会以前に、 宗園・宗陳の師である大林宗套が利休号を授けたとする春屋宗園の語録「一黙稿」の記述を裏付ける史料としても重要である。 天正十年の本能寺の変により信長が役し、 さらに同十一年四月に柴田勝家が滅んだことで、秀吉は事実上の天下人となった。賛文中に見える「当世以茶術為務」との文言から、 その秀吉の茶頭となったことを記念して制作 された肖像という見方もある。精悍な面構えが、絶頂期にあった利休の姿を彷彿とさせる。 長く長谷川等伯筆の可能性が指摘されてきたが、近年では堺にあった土佐派絵師の作ではないかという報告もある。

 

 

春屋宗園賛

古渓宗陳賛

描かれた時期

文禄4年(1595年)

天正11年(1583年)8月

利休の年齢

66歳頃

62歳頃

服装

宗匠頭巾に黒衣、上畳に座す

黒衣、上畳に座す

表情

鋭い眼差し、固く結ばれた口元

精悍な面構え

制作背景

楽家初代田中宗慶の依頼による遺像

秀吉の茶頭就任記念の可能性

画風

長谷川等伯筆の可能性が高い

近年は土佐派絵師の可能性も指摘

 

 等伯と利休は、豊臣秀吉に仕えていたという共通点がある。秀吉は茶の湯を奨励し、二人はその茶会で重要な役割を果たした。等伯は秀吉の命により、聚楽第や伏見城などの障壁画を制作した。また、茶会においても茶室の設営などを行った。利休は茶頭として茶会を取り仕切り、作法を指導し茶道具の製作や茶室の設計などにも携わった。
 二つの肖像画を見比べたときに、一見すると似ているという感想を抱く。しかし、似ているというのは何かが違うことを前提にしているため、同一人物であると断言するには、いささか違和感がある。前述のとおり利休の年齢も違うのだが、その顔から受ける印象は老化なのか作者の違いなのか判然としない。
 等伯と利休の人物における相違点に着目すれば、芸術性と精神性があげられるだろう。二人は秀吉に仕え、茶会において重要な役割を果たしたという共通点がある。しかし、その芸術性と精神性においては、明確な相違点が存在していることに留意しなければならない。等伯は華麗で力強い表現を得意としていた。狩野派の画風を受け継ぎながらも、独自の画風を確立した。その作品は、金箔や鮮やかな色彩を駆使した華麗で力強い表現が特徴である。代表作である「松林図」も、繊細な墨の筆致よりも、むしろ大胆な空間の配置に驚かなければならない。「山水図屏風」は、その力強さと繊細さを兼ね備えた墨蹟で、鑑賞者を圧倒する。一方、利休は茶道具や茶室の設計において、侘び茶の精神を追求した。無駄を削ぎ落としたシンプルな美しさ、静寂の中に生まれる心の豊かさこそが、茶の湯の本質であると考えていた。利休が携わった茶碗や茶室は、派手な装飾を排し、素朴な素材の持ち味を生かしたものが多くある。このように、等伯と利休は、芸術表現において対照的な側面もあったといえる。等伯が華麗で力強い表現で、見る者に圧倒的な感動を与える芸術を追求するのに対して、利休は、静寂と侘びの精神を体現した心の奥底に訴えかけるような芸術を追求したのだ。

 

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