芸術生成論2『京都のやきもの(初代宮川香斎)』

京都のやきもの史の概説を論じようとするなら、京焼以前というところからはじめなければならない。これは京都が平安、鎌倉、室町時代においては最大の人口を抱えた都であり、政治経済、さらには産業の中心であったことに影響している。しかし、本論では幕末の京焼作家の一部を紹介するところから、京都らしさを存分に持つ真葛長造の魅力を再発見したいと思っている。


清水五条坂を拠点とした陶磁器製品の本格的な生産によって、京焼には色絵陶器・磁器の二つの主流が形成された。つまり、色絵陶器を主体とした粟田口窯と、新興磁器も生産できる清水五条坂窯がそれぞれ担うようになった。そして、文政年間(1818~1830)に入ると、清水五条坂では磁器生産により得た経済力を背景として、粟田口陶家が独占状態であった高級色絵陶器の分野にも進出するようになる。

文政六年(1823)、粟田口陶家が使用していた岡崎土を五条坂陶家側が一括して買占めから「粟田口・五条坂両陶家の抗争」が勃発する。さらに翌七年に粟田口陶家より京町奉行所に訴えられた五条坂陶家での「粟田焼似寄り」色絵陶器の製造禁止の事件が続き、江戸後期の京焼ではこうした新しい動向に伴った競合的抗争として注目されるが、粟田口陶家の伝統を保持しようとする動きも、結局は町奉行所の決裁により自窯製品に「粟田」銘印を焼き付け、五条坂製品と区別するにとどまった。しかし、翌年12月に五条坂窯での高級色絵陶器の生産を粟田口窯も認めざるを得ない形で結末をとげている(『栗田五条坂出入一件』、個人蔵)。

仁清・乾山・頴川に続いて京焼の黄金時代を担った陶工たちが活躍するのは、まさしくこうした伝統と新興の京焼が渾然一体となっていた気風があったからであろう。中でも、頴川の門下からは青木木米、欽古堂亀祐、仁阿弥道入ら頴川の新風を継承した名工たちの評価は高い。木米の周辺には轆轤師として名声を博した岡田久太、仁清写しで一家を成した真葛長造、仁阿弥道八のもとでは弟尾形周平、五条坂陶家の清風与平らが活動し、さらには茶陶の永樂保全、その子和全が活躍するなど個性豊かな名工たちが輩出している。

乾山写牡丹小鉢

 

南京交趾写 牡丹文様食籠


さて、真葛長造である。木米周辺の名工で忘れてならないのは、木米の轆轤師を務めた岡田久太であり、久太とともに木米を助けて作陶を行った赤鯶香齋(1819~1865)である。長造は本名を蝶三郎、延寿軒と号し、宮川長閑斎を家祖とした楽焼の陶家九代長兵衛の子であったが、晩年の木米に師事し祇園真葛原に陶業を営んで以後は、真葛を姓とし真葛長造と称した。そして、知恩院華頂宮門跡より香山号を拝領した。長造の息子で横浜に真葛焼を開いた宮川香山は「木米は書も出来るし画も出来るが、惜しいことに轆轤が出来ないから轆轤は久太といって三条に名人があったこの人がやり、細工万端は父の長造がやった」(岡落葉「宮川香山翁を訪ふ」雑誌『美術新報』明治44年)と三者の関係を語っている。長造は木米に倣い染付磁器なども手がけたが、木米の死後は仁清写や洗練された銹絵、色絵の茶道具を最も得意とした陶器を制作し、これによって一家を成した。

初代香齋の作品には染付、青華など中国の写しが多く、当時流行していた文人趣味の煎茶道具も多く作っている。絵付けに関しては線が力強く、呉須は濃く描かれているのが特徴である。書銘が多く「香齋精製」「洛東陶香齋精製」「大日本香齋製」などがある。「大日本○○」と書銘がある物が、江戸末期~明治にかけて多くあるが、その理由は海外向けの作品を意識して作ったためである。中国の「大明成化年製」や「大清乾隆年製」を手本にしたものである。作品は大花瓶や陶箱など海外にも多く存在し、中でもスコットランド国立美術館(イギリス)には多くの作品が所蔵、公開されている。

祥瑞手杯

 

青華蘭花鉢

 

 

 

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