仁阿弥道八(高橋道八) ― 京焼第二の黄金時代を築いた名陶
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生涯と人物像:京焼の黄金時代に生まれ育つ
仁阿弥道八(二代高橋道八、1783‐1855)は京都粟田口(あわたぐち)の陶工の家に生まれ、本名を光時と言いました。1804年(文化元年)に父・初代道八が亡くなると、22歳で家業の窯を継いで二代目を襲名し、1811年(文化8年)には粟田口から五条坂に移窯しました。1826年(文政9年)には帝から「仁」の字を賜り、さらに翌年には紀州藩から招かれ、息子(三代道八)や弟子らと共に和歌山偕楽園焼(紀州御庭焼)を創始しました。幕末の京都は野々村仁清以来の「第二の黄金時代」と称される時期で、道八もその代表的な名工として活躍しました。1842年(天保13年)に窯業を三代道八に譲って隠居し、伏見桃山に「桃山窯」を築いて制作を続け、1855年(安政2年)に73歳で没しました。
多様な作風と革新の技法
道八は父や雲林院(うんりんいん)の陶工、さらに文人陶工の奥田頴川に学びました。
その作風はまさに多彩で、中国陶磁風の染付、色絵(陶器への彩色)、楽焼風の黒釉、乾山写(尾形乾山風)、仁清写など、あらゆる様式・技法を駆使しました。とりわけ茶道具の「写し(模写)」の名手として知られ、注文に応えて中国・朝鮮の名品を見事に再現した作品も数多く残しています。一方で、柔軟な発想から生まれた独創的な仕掛けにも定評があります。例えば、色絵の女児置物を裏返すと着物の下に何もつけておらず、恥部を手のひらで隠すという遊び心や、乾山写の鉢をくるりと回すと文様が変わる仕掛けなど、先例のない工夫を凝らしました。このように道八は、伝統への敬意と大胆な創意を両立させる天才的な陶工でした。
代表作の造形美と技術
黒楽鶴亀文茶碗(仁阿弥道八作)
仁阿弥道八の作陶には禅の吉祥文様が多用されました。この黒釉と赤釉の一双茶碗は、縁起物の「鶴(つる)」と「亀(かめ)」を意匠化したもので、外側に白抜きの飛翔する鶴、見込み(底)にはゆったりと歩む亀が描かれています。鶴亀文は長寿を象徴する吉祥紋様であり、江戸後期の文人陶工・奥田頴川や仁清、乾山などの影響を受けていた仁阿弥道八らが好んで採用しました。また、この茶碗のような厚手の楽茶碗は、熱を程よく保持し、手にしっくりと収まる形状に設計されています。

18世紀後半から煎茶道の盛行に伴い、盧仝(ろどう、中国の詩人)の煎茶詩「茶歌」を文様にした急須など煎茶器も数多く制作されました。この急須には藍と朱色の色絵で盧仝の詩句が全周に記され、丸みのある胴に鋭い嘴(注口)が付いています。仁阿弥道八は茶会用の抹茶道具だけでなく、煎茶文化の流行に応えて急須や涼炉、煎茶碗なども手掛けました。

懐石料理や茶事で用いる手鉢(てばち、懐石鉢)でも道八の個性が光りました。写真は表面を鉄絵(銹絵)で雪の降り積もる竹を大胆に描いた手鉢です。ひときわ有名なのは、雪竹図のほか、桜と紅葉を半分ずつ描いた「雲錦手(うんきんで)」の鉢などです。これらの鉢は文政期に誕生と同時に高い人気を博しました。写真の雪竹文手鉢も見る角度によって景色が変わるよう工夫が施されています。

こちらは雲錦手(色絵桜・楓文)の大鉢です。内外面に満開の桜と紅葉が生き生きと描かれ、土の素地が透ける瑠璃色と紅葉の朱色が対照的に美しい一例です。道八は金襴手や色絵など装飾力の高い技法も得意とし、濃淡の豊かな絵付けで京都の四季を表現しました。仁清や乾山の系譜を継ぐ京焼の巨匠として、華やかで優雅な色絵技法を極めました。

仁阿弥道八が制作した彫塑作品の代表例が、この丈72.5cmの寿老人立像です。長寿の星神である寿老人をモデルとし、全体を色絵で仕上げた大作で、表情も生き生きとしています。会場のメインビジュアルにもなったように、冷静な観察眼で陶彫の可能性を広げた道八の作風が如実に表れています。このような置物は、裏返すと底面まで装飾されており、細部に至るまで作者の遊び心が反映されています。

この白釉の山羊(やぎ)形手焙(てあぶり、暖炉に置く炭火用容器)は、仁阿弥道八が茶道具にユーモアを吹き込んだ作品例です。草むらで眠る山羊をリアルにかたどった形と、触れると温かそうに見えるなめらかな釉調が特徴。道八は置物・手焙・炉蓋などの彫塑的作品を通じて、見た人の想像を超える面白さを表現しました。
色絵狸炉蓋(仁阿弥道八作)
狸(たぬき)を擬人化したこの炉蓋(ろぶた)は、茶室の炉を覆う装飾用具です。紺地に金彩で法衣をまとったタヌキが座禅を組む姿を描き、どこか滑稽な表情をしています。仁阿弥は動物や人物を扱った作品も得意で、この狸炉蓋のような彩色豊かな香合や飾りものも数多く生み出しました。
茶道具の機能美
仁阿弥道八は、造形の美しさだけでなく茶道具としての実用性にも配慮しました。茶碗の口縁は飲みやすく、胴は保温性に優れる厚手の造り、高台は安定感のあるサイズといった細部から「手取りのよさ」を追求しています。京都は古来から上流階級の茶の湯文化と結びついていたため、京焼の茶道具は絢爛な装飾性と同時に使い勝手の良さも重視されて発展してきました。仁阿弥作品にも、茶を点てる際の手の動きや視覚効果を意識した設計が随所に見られます。
高橋道八家の継承:三代から現代へ
天保13年(1842)に仁阿弥道八は五条坂の窯を息子・光英(みつひで、三代道八)に譲りました。三代道八(1811~1879)は父の写実的な美意識を受け継ぎながらも、より繊細な筆致で作品制作を行い、四代道八と共に明治時代の京焼を支えました。その後も途切れることなく道八家の伝統は継承され、現代では九代高橋道八氏が色絵京焼の茶道具を手がけています。道八家は約240年にわたって名跡を守り続け、今もなお独自の世界観を新たに打ち出し続けています。
茶道の美意識と京焼の関係
京焼(清水焼を含む)は、茶の湯の流行とともに発展しました。安土桃山時代から江戸時代にかけて茶会が上流社会に広まると、幕府や公家・豪商は茶席向けの独自陶器の製作を奨励しました。この時期に野々村仁清や尾形乾山が鮮やかな色絵磁器で京焼の価値を高め、さらに仁阿弥道八らが京都の伝統文化を取り入れて新たな様式を生み出しました。茶道は季節感・侘び寂(わびさび)を重んじるため、京焼の茶道具にも花鳥風月や禅の精神が反映されています。仁阿弥の作品には、桜や竹、松など自然の文様や縁起物が数多くあしらわれており、茶席での「おもてなし」を意識した美学が色濃く表れています。これらは京都で培われた茶道具の歴史と精神性を体現しており、今日でも京焼が茶の湯文化の華として愛される所以と言えるでしょう。