日本の青磁

日本の青磁とは

 日本の青磁を語るとき、中国のものを基準にして語るべき、という考えがある。中国のものから影響を受け、学んだものであるという理由からだ。たしかに自明のことであって、日本の陶磁に限られたことではない。しかし、こうした視点だけでは日本の青磁の歴史を語るには十分とは言えない。たとえば、名品として名高い作品が現代に残っていることからもわかるように、他のものとは一線を画する魅力がある。ここでは、日本の近代における青磁の意味について、簡略ではあるがその流れを追いながら紹介したい。

明治の輸出陶器

 近代に入り、日本の陶磁器は一大産業となっていく。貿易が活発になることで、国内はもちろん世界中の注目を集めたのである。善美が特別あらまききらめきのあると言う考えは、中国のものから影響を受けた美意識によるものであるが、日本の輸出陶磁にもそのような評価を与える美術史家もいる。もちろん、この時期の作品には、現存するものも見受けられる。
 一方では品評会のような催しが開かれるようになり、それに出品される作品が工芸家たちの研究対象ともなっていく。そうした場では、いわゆる輸出品とは異なる工芸の粋、または美意識に基づく個人作家による作品、工芸の集合体、あるいは鑑賞を意図した作品としての青磁も出品されるようになった。
 もちろん、名高い残っている作品にはこうした系譜に連なるものも多い。工芸作品にしても、輸出品にしても、その数は少なく、また完形で残っていることは少ない。そのため、当時の青磁制作を論じるにあたっては非常に困難を伴うことになる。とくに、素焼き前の形での発見もあるが、それを工芸作品として見ることが少ないことも、その一因と言ってもよいだろう。

諏訪蘇山と板谷波山

 そんな一人に、諏訪蘇山が挙げられる。彼は嘉永4年(1851年)に加賀国金沢で生まれ、もとは加賀藩士の家に育った。若くして家督を継ぎ、藩で武芸を学び軍務を務めるなど異色の経歴を持つが、その後、任田屋徳次に陶画を学んでから本格的に陶芸の道へと進んでいった。京都へ出る前には北陸地方各地で陶器や煉瓦の製造・指導に関わり、瀬戸や九谷を視察して古美術を学ぶなど、旺盛な探求心が窺える。

 明治9年頃には大井村に工場を設立し、橋本雅邦や久保田米僊を招いて陶像や模型の製作を試みるなど、多彩な活動を展開していた。やがて石川県工業学校の教員を務めつつ、煉瓦製造の改良にも尽力。煉瓦窯を設計するなど、単なる焼物職人の枠を超えて、多方面に技術を広めた人物でもある。

 明治33年頃からは京都に身を移し、錦光山宗兵衛の工場で製陶の改良を行ったあと、自ら五条坂に独立窯を構えた。七官青磁や白高麗、交趾釉、漆黒釉など多様な様式を研究し、とりわけ鳥の子青磁と呼ばれる独特の色調を生み出したことでも知られる。高麗古窯の再興のため李氏朝鮮に渡ったり、帰国後も窯の再建指導を続けるなど、研究者・技術者としての側面も強い。大正6年に宮内省の帝室技芸員となり、皇室への作品献上も行った。

 作風は一貫して写実的・精緻な意匠を追求しながらも、大量生産には一度も携わらなかった。その作品はいずれも青磁にふさわしい端正な形姿をもち、深みのある釉薬と精巧な彫りによって装飾が施されている。たとえば、鳥の子青磁、唐獅子や人物の大型陶像、彩釉による透かし彫りの花瓶など、ジャンルを問わず幅広い表現を行い、昭憲皇太后や吹上御殿に買い上げられた作品も現存する。まさに輸出陶磁が中心だった時代において、明朝期の青磁に通じる趣をもつ作品を独自に生み出し続けた稀有な陶芸家といえるだろう。

 こうした姿勢の上に、彼は晩年に朝鮮での高麗窯再興にも携わり、窯の焼成実験や研究指導などにも尽力した。最晩年には肺炎をこじらせて脳溢血を発症し、大正11年に七十を越えて没したが、作品と技術は養女である二代目の諏訪蘇山、その後の三代・四代へと受け継がれている。この諏訪蘇山という作家が存在したことによって、明治から大正にかけての日本の青磁づくりに、単なる中国風の模倣にはとどまらない写実や彫刻表現が芽吹いていたことを見て取ることができる。前記のように、明治中期から昭和初期まで青磁は主に輸出用として生産されていたが、蘇山は大量生産とは一線を画し、自らの美意識を貫き続けた。その姿勢が、のちの日本の陶芸界にも大きな影響を与えている。

 一方、板谷波山についても、近代の青磁の大家として同列に語られる存在である。諏訪蘇山と同じく、あえて中国的なスタイルから自由な道を模索した一人といえるだろう。

京都市立陶磁器試験場

 日本初の陶磁器の試験研究所として設立された京都市立陶磁器試験場(明治42年=1909年創立)は、日本の近代陶芸史を語る上で欠かすことのできない場所である。ここでは、中国風の写しにとどまらず、独自の美を追求した青磁作品が作られていた。
 青磁を語るとき、どうしてもその基準を中国に置きがちであるが、民間製造業以外の分野では、むしろそれは例外的なものである。つまり、中国風の写しというだけではない、独自の美意識にもとづく青磁が作られていたのである。

 また、同試験場の役割として、実験的に作品を作る試みがなされた点も見逃せない。伝統的な製法や時期、窯の条件をあえて変え、さまざまに試作を行うことで、貴重な研究の成果が今に伝えられている。そうした研究姿勢のもと、当時の若い陶工たちが腕を磨き、灰釉から長石釉への転換期が訪れるなど、釉薬の発展にも大きな転機がもたらされた。実際、短い創立初期の期間にもかかわらず、この試験場では数多くの優品が生まれた。昭和に入ってからは青磁の研究がより本格化し、より実践的な作品が増えていく。日本での青磁技術の向上に、京都市立陶磁器試験場が果たした役割は、はかりしれない。

創作青磁と岡部嶺男

 そして、岡部嶺男という存在が、日本の美意識における大きな転換を象徴する作家として登場する。日本において、個人作家の創作として青磁を位置づける動きが本格化したのは、岡部嶺男の活動が高く評価されてからだと言ってよい。岡部は最初から中国磁器の再現だけを念頭に置いたわけではなく、焼成方法や素地の組み合わせ、釉薬の調合に独自の工夫を凝らして、自分独自の青磁を生み出していた

 板谷波山のように、中国的な伝統にとらわれず、あくまでも自身の美意識を突き詰めて作品化するという態度は、近代においてはむしろ稀なものだった。岡部の作品が特に日本人の琴線に触れるのは、他者の評価を超越し、自身のうちにある「私的な美」を追求しているからに他ならない。言い換えれば、もしも中国の青磁をお手本にする意識が強かったならば、あのような独創的な青磁は生まれなかったかもしれない。

清水卯一と三浦小平二

 岡部嶺男とならび、戦後を代表する青磁作家として名を連ねるのが清水卯一と三浦小平二である。いずれも人間国宝に認定されたことでも知られ、その理由は、青磁という伝統的様式を受け継ぎつつ、同時代の美意識にそくして新たな創作を行った点にある。岡部が「私的な美」の極限をいくとすれば、清水・三浦の青磁は工芸の文脈を正面から受け止めたうえでの「公共性」にもとづく作品といえよう。五条坂で修業を積んだ清水卯一は、徹底した技術研鑽のもとに茶陶なども含め多くの焼物を試みており、端正で控えめな装飾による青磁作品でも多くのファンを魅了してきた。

 一方、新潟県佐渡出身の三浦小平二は、青磁釉の深みを活かしながら、焼成時の偶然的な変化に注目しつづけた作家である。どうしても「様式性」や「均質さ」に偏りがちな青磁において、釉薬の流動による微妙な表情を楽しみ、詩的ともいえる境地へと高めた。自らの美意識をさらに超えて、青磁という媒介で自らを表現する、稀有な才能だったと言えよう。

現在の青磁と楽しみ

 現代の青磁作家たちがこだわる点の一例として、「青磁」と「青瓷」の呼び分けがある。長く中国的な文脈と結びつけられてきた「青瓷」と区別するために、あえて「青磁」と表記する場合も少なくない。言葉の使い分けにこれほど注意が払われるのは、まさに現代工芸としての自覚と意識が強く働いているからだろう。

 岡部嶺男以降、日本人がもつ「青磁=青い磁器」という固定観念からの離脱が進み、紺青や白、緑がかった色調など、以前にはなかった多彩な表現が試みられるようになった。その道筋を踏まえて、現代の作家たちはさらに新しい技術や釉薬表現に挑みつづけている。結果として、青磁の技法はますます洗練され、陶芸における青磁作品の位置づけはかつてないほど高まっている。

 用途の面でも、かつてのように飾って鑑賞するためだけではなく、実用を前提とした器類が多く作られるようになっている。煎茶用の急須や茶器などとして青磁を取り入れる動きは近年とりわけ注目され、並べて飾るというより、使いながら楽しむ風潮も定着してきた。
 料亭やレストランで料理の器として使用される例も増え、釉薬の美しさや端正なフォルムを活かした現代的なライフスタイルが提案されている。高台の低い、口縁の立った形状などは盛り付けの際にもバランスがよく、実用性を兼ね備えていることが評価される理由でもある。

 そうして実際に手に取り、使い、眺めるほどに、すべての青磁作品が一点ものの尊さを帯びていることに気づかされる。釉薬がうまく流れなかったり、轆轤で形がわずかに崩れていたりしても、むしろそこに作家独自の美が浮かび上がる。器であると同時に、すべてが作品として成立している。それこそが青磁の大きな力であり、魅力である。

 型にとらわれず、どんどん自分の表現へと変化させていける自由度も青磁ならではと言えるだろう。完璧さを求めすぎるがゆえに生じがちな限界に、青磁はかえって新たな気づきを与えてくれる。何度でも挑戦したくなる、そういう不思議な素材である。

 現代の青磁作家の多くは、一つの様式に縛られることなく、自由な創作を展開している。その背景には、岡部嶺男・清水卯一・三浦小平二といった先人たちの存在が大きい。青磁はもはや特別なジャンルではなく、陶芸の表現手段のひとつとして広く認められている。形が生み出す表情の違いによって、美の価値もまた変わりうる。結局は、自分の感性を信じ、自由に青磁と向き合うことが、いま求められているのかもしれない。

 

諏訪蘇山 – 高級陶器の専門店【甘木道】

 

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