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Theory of Art Creation 9 "How to Drink Matcha"

抹茶の飲み方について、一般的には礼儀作法や抹茶の点て方が重視される。しかし、これらは押しなべて本質的なものではないと考える。確かに茶道の稽古では、各流派が最適とされる礼儀作法や点て方を教える。本意とは、まわし飲みをすることではないかと筆者は考える。つまり、礼儀や味は二次的なものに過ぎないのだ。一つの器で抹茶をまわし飲みすることこそが、茶の湯の精神の最も重要な要素であると提言したい。何も専用の抹茶碗がなくても、手持ちのコーヒーカップや平皿、何であっても漏らない器であれば良いのではないか。まずは形にこだわらず、誰かとまわし飲みを実践すると見えてくる快味がある。現代において、抹茶のまわし飲みを正しい実践として行えば、時間の短縮よりも他人との関係を延長する意義がある。他人との結びつきを強化し、茶の湯の本質に近づけると考えている。

Theory of Art Creation 9 "How to Drink Matcha"

抹茶の飲み方について、一般的には礼儀作法や抹茶の点て方が重視される。しかし、これらは押しなべて本質的なものではないと考える。確かに茶道の稽古では、各流派が最適とされる礼儀作法や点て方を教える。本意とは、まわし飲みをすることではないかと筆者は考える。つまり、礼儀や味は二次的なものに過ぎないのだ。一つの器で抹茶をまわし飲みすることこそが、茶の湯の精神の最も重要な要素であると提言したい。何も専用の抹茶碗がなくても、手持ちのコーヒーカップや平皿、何であっても漏らない器であれば良いのではないか。まずは形にこだわらず、誰かとまわし飲みを実践すると見えてくる快味がある。現代において、抹茶のまわし飲みを正しい実践として行えば、時間の短縮よりも他人との関係を延長する意義がある。他人との結びつきを強化し、茶の湯の本質に近づけると考えている。

Art Creation Theory 8 "On Nara Pottery"

奈良の陶器で代表的なのは赤膚焼である。五条山一帯に広がり、茶の湯との関わりも深く、「遠州七窯」の一つに数えられている。奈良の窯業は良質な陶土に恵まれ、古代から土師氏による埴輪製作などが行われてきた。この地での窯業の伝統は中世期にも引き継がれ、鎌倉期には火鉢土器の生産が盛んであった。室町期には南都興福寺を中心に土器座・瓦器座などが組織され、製品は京洛にまで販売されていた。赤膚焼の歴史は、古代の埴輪製作に遡る。中世には春日大社や興福寺などの供御器製作が盛んで、土器座が結成されたようだ。江戸時代には郡山藩主の指導で再興され、独自の陶器文化が発展し、現代に引き継がれている。このように、奈良の陶芸は良質な土、神仏との関わり、人々の努力によって育まれてきたと言えるだろう。

Art Creation Theory 8 "On Nara Pottery"

奈良の陶器で代表的なのは赤膚焼である。五条山一帯に広がり、茶の湯との関わりも深く、「遠州七窯」の一つに数えられている。奈良の窯業は良質な陶土に恵まれ、古代から土師氏による埴輪製作などが行われてきた。この地での窯業の伝統は中世期にも引き継がれ、鎌倉期には火鉢土器の生産が盛んであった。室町期には南都興福寺を中心に土器座・瓦器座などが組織され、製品は京洛にまで販売されていた。赤膚焼の歴史は、古代の埴輪製作に遡る。中世には春日大社や興福寺などの供御器製作が盛んで、土器座が結成されたようだ。江戸時代には郡山藩主の指導で再興され、独自の陶器文化が発展し、現代に引き継がれている。このように、奈良の陶芸は良質な土、神仏との関わり、人々の努力によって育まれてきたと言えるだろう。

Theory of Art Creation 7 "Thoughts on Ogata Ken...

尾形光琳の弟である乾山は、1699年に京都の鳴滝で窯を開き、陶工としての道を歩み始めた。窯には野々村仁清(二代目)の弟子である清右衛門や猪八が参加しており、仁清の陶法伝書が乾山に伝えられていた。この背景には、仁清が自身の技法を乾山の窯に託そうとする意図があったのかも知れない。乾山の作品には仁清の洒脱さが残る。器にさまざまな絵文様を描くことで、独自の美を追求しようとしていた。乾山は、器の形状に重点を置かず、単純な形の茶碗を下地とし、そこに絵や詩賛を描いて、新しい文人的な作風の茶碗を創り出した。代表作である「銹絵滝山水図茶碗」や「槍梅絵茶碗」では、光琳の手による可能性も指摘されている優れた筆致が見られる。乾山の作品には、紅白梅図屏風のように梅を好んだ光琳の影響が感じられる。仁清から乾山への継承と発展によって、江戸時代を代表する茶の湯の茶碗が生まれたのである。

Theory of Art Creation 7 "Thoughts on Ogata Ken...

尾形光琳の弟である乾山は、1699年に京都の鳴滝で窯を開き、陶工としての道を歩み始めた。窯には野々村仁清(二代目)の弟子である清右衛門や猪八が参加しており、仁清の陶法伝書が乾山に伝えられていた。この背景には、仁清が自身の技法を乾山の窯に託そうとする意図があったのかも知れない。乾山の作品には仁清の洒脱さが残る。器にさまざまな絵文様を描くことで、独自の美を追求しようとしていた。乾山は、器の形状に重点を置かず、単純な形の茶碗を下地とし、そこに絵や詩賛を描いて、新しい文人的な作風の茶碗を創り出した。代表作である「銹絵滝山水図茶碗」や「槍梅絵茶碗」では、光琳の手による可能性も指摘されている優れた筆致が見られる。乾山の作品には、紅白梅図屏風のように梅を好んだ光琳の影響が感じられる。仁清から乾山への継承と発展によって、江戸時代を代表する茶の湯の茶碗が生まれたのである。

Theory of Art Creation 6 "Ishiguro Munema Potte...

近年のデジタル・ミュージアムという取り組みは、インターネットを通じてさまざまな芸術作品に触れることを可能にするものである。特に陶器の分野では、京都国立近代美術館が公開した「ABCコレクション・データベース 石黒宗磨陶片集」が面白い。このコレクションは、視覚障がいのある人を含む多くの人々が、陶器の質感や重さを想像しながら楽しめるように工夫されている。陶片の画像にカーソルを重ねると、触ったり叩いたりした際の音が再生され、聴覚を通じて作品を体験できるのだ。デジタル技術を活用してより多くの人々にアートとしての陶器を楽しむ機会を提供してくれる。陶器を視覚だけではなく、カサカサ、ザラザラ、コツコツといった聴覚でもって作品を体験できるのは楽しい。

Theory of Art Creation 6 "Ishiguro Munema Potte...

近年のデジタル・ミュージアムという取り組みは、インターネットを通じてさまざまな芸術作品に触れることを可能にするものである。特に陶器の分野では、京都国立近代美術館が公開した「ABCコレクション・データベース 石黒宗磨陶片集」が面白い。このコレクションは、視覚障がいのある人を含む多くの人々が、陶器の質感や重さを想像しながら楽しめるように工夫されている。陶片の画像にカーソルを重ねると、触ったり叩いたりした際の音が再生され、聴覚を通じて作品を体験できるのだ。デジタル技術を活用してより多くの人々にアートとしての陶器を楽しむ機会を提供してくれる。陶器を視覚だけではなく、カサカサ、ザラザラ、コツコツといった聴覚でもって作品を体験できるのは楽しい。

Theory of Art Creation 5: "Rosanjin's Interpret...

魯山人は、千利休と長次郎について独自の見解を述べている。彼は茶碗作りの本質に着目し、長次郎の作る「極めて単純な器」に精神性が宿ると評価する。それも、長次郎の茶碗は、暖かく穏やかな雰囲気を持ち、品格と貫禄を備えた井戸茶碗に似た重厚感を持つと述べている。魯山人は、このような作品を生み出す長次郎の天分と集中力を称賛する。一方、利休については、世間で言われるほど偉大ではないと考えていたようだ。魯山人は、利休の書跡から頑固さと強引さを読み取り、その人間的側面を指摘する。利休が長次郎を指導したという説についても彼は否定的であり、指導だけで人間の力が変わるものではないと述べている。例えるなら、教育は肥料のようなものであり、元の才能や特質が変わることはないという考えを、「瓜の蔓に茄子はならぬ」という比喩を用いて表現している。

Theory of Art Creation 5: "Rosanjin's Interpret...

魯山人は、千利休と長次郎について独自の見解を述べている。彼は茶碗作りの本質に着目し、長次郎の作る「極めて単純な器」に精神性が宿ると評価する。それも、長次郎の茶碗は、暖かく穏やかな雰囲気を持ち、品格と貫禄を備えた井戸茶碗に似た重厚感を持つと述べている。魯山人は、このような作品を生み出す長次郎の天分と集中力を称賛する。一方、利休については、世間で言われるほど偉大ではないと考えていたようだ。魯山人は、利休の書跡から頑固さと強引さを読み取り、その人間的側面を指摘する。利休が長次郎を指導したという説についても彼は否定的であり、指導だけで人間の力が変わるものではないと述べている。例えるなら、教育は肥料のようなものであり、元の才能や特質が変わることはないという考えを、「瓜の蔓に茄子はならぬ」という比喩を用いて表現している。

Theory of Art Creation 4: "Rikyu according to H...

長谷川等伯による千利休の肖像画は二種類あり、それぞれに異なる特徴と背景があある。一つ目の肖像画(不審庵)は、利休没後四年、文禄四年(1595年)に描かれたもので、利休が66歳頃の姿を描く。鋭い眼差しと固く結ばれた口元が印象的で、楽家初代の田中宗慶の依頼により制作された。画風から長谷川等伯の作とされ、秀吉に仕えた等伯と利休の関係性を示す貴重な作品である。二つ目の肖像画(正木美術館)は、天正十一年(1583年)に利休が62歳頃の姿を描いたもので、こちらは利休の師である古渓宗陳の賛があり、秀吉の茶頭就任を記念して描かれた可能性が高いが、近年、土佐派絵師の可能性も指摘されている。等伯と利休は共に豊臣秀吉に仕え、茶会で重要な役割を果たしたが、その芸術性と精神性には明確な違いがある。等伯は華麗で力強い表現を得意とし、鮮やかな色彩や大胆な空間配置を用いた一方で、利休は侘び茶の精神を追求し、シンプルで静寂の中に美しさを見出す表現を重視した。このように、二人の芸術表現には対照的な側面を見出すことができるだろう。

Theory of Art Creation 4: "Rikyu according to H...

長谷川等伯による千利休の肖像画は二種類あり、それぞれに異なる特徴と背景があある。一つ目の肖像画(不審庵)は、利休没後四年、文禄四年(1595年)に描かれたもので、利休が66歳頃の姿を描く。鋭い眼差しと固く結ばれた口元が印象的で、楽家初代の田中宗慶の依頼により制作された。画風から長谷川等伯の作とされ、秀吉に仕えた等伯と利休の関係性を示す貴重な作品である。二つ目の肖像画(正木美術館)は、天正十一年(1583年)に利休が62歳頃の姿を描いたもので、こちらは利休の師である古渓宗陳の賛があり、秀吉の茶頭就任を記念して描かれた可能性が高いが、近年、土佐派絵師の可能性も指摘されている。等伯と利休は共に豊臣秀吉に仕え、茶会で重要な役割を果たしたが、その芸術性と精神性には明確な違いがある。等伯は華麗で力強い表現を得意とし、鮮やかな色彩や大胆な空間配置を用いた一方で、利休は侘び茶の精神を追求し、シンプルで静寂の中に美しさを見出す表現を重視した。このように、二人の芸術表現には対照的な側面を見出すことができるだろう。